おいしい煮つけになりたい

唐瓜直が何やら日記を書いたり、即興創作(140文字×X+α)したり、メモしたり。というブログ。

肺煙少女サナトリウム 前編

     *     *     *

 海沿いにあるひなびた駅。そこから車で三十分ほどのところに療養所はあった。
 守衛が立ち、門が閉ざされた入り口は、僕が勝手に想像していた施設よりも物々しい。

 確認手続きが終わるまでの間、少しだけ待たされることになった。
 幸いなことに門の脇にはプレハブの喫煙室が用意されていた。僕は守衛室の中に向けて「吸ってきます」と一声かけ、喫煙室に向かった。
 扉を開けて入ると、エアカーテンが強く風を起こす。消臭剤の匂いが充満するその場所に人影はなかった。
 都心ですら喫煙者に出くわすのはまれだ。こんな場所であればなおさらだ。

 胸ポケットに入れていたソフトボックスを取り出すと、タバコを一本抜いて火をつけた。
 これが人生における最後の一服、というわけではない。この喫煙室には入所後も来ることができると聞いていた。
 でも、喫煙所があるのは門の外だ。敷地外の扱いになる。入退所のたびにセキュリティチェックを受ける必要があると聞いていた。それは少し考えただけで面倒くさそうだった。
 それならば今、気軽に吸えるうちに口にしておくべきだ。

 どうせこれから、日本でタバコは吸えなくなるのだ。
 こうして吸えるうちに楽しむべきだ。

 視線を喫煙室の出入り口にやれば姿見が置かれている。
 身だしなみを整えるためのものではない。このご時世にまだタバコを吸っている自分を客観視させるためのものだ。

 映り込む自分の姿を見る。社会人になって数年がたつのに、学生っぽさが残っているのが未だに悩みの種だった。若いと言われればいやな気はしないが、そこには幼さが見えるという意味も含まれている気がしてしまう。
 緊張が顔に出ているのだろうか、眉が寄ってしわが浮かんでいた。これはいけない。ライターとタバコの箱を持ったままの左手で眉間をほぐす。リラックスする為に吸っているのだ。こんな表情をしていては、気持ちが前向きにならない。

 手の中のソフトボックスは飾り気のない真っ白な箱だ。そこに健康被害を注意する長ったらしい文章と、各国に足並みをそろえて日本も大気汚染防止協定に参加する旨、そして半年後に迫った禁煙法成立による喫煙可能期限が印刷されている。
 それは可読性と情報量のバランスをとったせいで、遠くから見れば白黒のストライプに見えた。
 年々喫煙人口が減っていく中であえてタバコを吸う人間が、これをゼブラと呼ぶのもわかる気がする。
 いくら格好良く呼んだところで、喫煙者であるという事実が消えるわけではないというのに。

 喫煙行為が免許制になってからどれくらいの時が経ったのか、僕は覚えていない。ちゃんと勉強はした。だけど免許を取得した今となっては、その成立年月を忘れても吸うことはできる。だから、忘れてしまった。
 僕が吸える年齢になったときにはすでにコンビニでの販売が禁止され、街中の自動販売機は撤去されていた。タバコは役所に行って、喫煙免許を提示しないと手に入らなくなっていた。

 免許を取得するための登録に、随分と時間がかかったことを今でも覚えている。
 依存性の高さや体への悪影響の講義から始まって、嫌煙者のコメント集の朗読なんてことも行われた。途中で何度も聞かれるのだ。「それでも吸いますか」と。
 多くの人間はそこで面倒になってやめるのだと聞いた。喫煙免許の発行が有償であることと、三年ごとの更新が義務づけられていることもタバコ離れを引き起こすには十分だった。
 それでも僕はタバコを吸ってみたかった。子供の頃にテレビで見た昔の映画のせいだ。路地裏でビルに寄りかかって、主人公が美味しそうに口にしていたから。
 再放送だったそれには、番組冒頭で注意書きが表示された。本作品には喫煙シーンが登場しますが、作成当時の年代を考慮し撮影当時の表現のまま放送します。
 子供心に、馬鹿げているなと思った。

 大人になって口にしたそれは、けして美味しい物ではなかった。それでも煙を楽しむことは僕の日常に組み込まれた。
 認可された一月あたりの上限箱数を超えて買い増すことはしない。
 外で吸いたくなったとしても喫煙所以外では吸わないし、衣服に消臭剤を振りまき、タブレットを噛んで、少しでも匂いが人に伝わらないようにした。

 そんな優良喫煙者だったはずの僕に、治療の案内が届いたのは先月の初めだ。
 梅雨が終わろうとして夏が近づいていたころ、会社の総務部から禁煙治療の呼び出しを受けた。
 大気汚染防止協定による禁止品目一覧に、タバコがねじ込まれた影響だった。

 嫌煙団体を恨まずにはいられない。こうやって狭く小さな喫煙室に追いやるだけで我慢してくれても良さそうなものだが、結局は喫煙行為そのものを禁止する流れになった。
 タバコというより、喫煙者が嫌いだったのだろう。同団体が火力発電やゴミ焼却施設、キャンプファイヤー護摩業、火葬場なんてものをリストアップしたという話は聞かなかった。
 大気汚染という観点からみれば、喫煙が与える影響なんて僅かなものだろうに。

 そんなことを考えながら鞄をあさった。関口明と自分の名前が印字された紙を封筒から取り出す。
 会社の総務部から渡された案内状だ。当日必携と念を押されていた。

 それにしてもこの文面はひどい。何度見てもそう思ってしまう。

 ――清らかな空気の中で、タバコの誘惑を断ち切る生活を――

 まるで治療が必要な病人のような扱いだ。
 いや、わかってる。こんな状況になってまで煙草をやめられないなんて、どうかしている人間ばかりだ。
 だからといって、わざわざ施設に足を運んでまで禁煙治療を行うのは面倒だった。
 とりあえず吸うのをやめればいいのだろうか。案内に記載されていた電話番号に連絡してみたが、とにかく一度来てくれということになった。

 勤務先にも先に話があったらしく、僕には特別休暇が与えられた。
 喫煙者に対する風当たりが強いというのに、禁煙治療のために個人的な休暇が与えられるとなったらより肩身が狭くなりそうだったが、社内的には出張として処理された。

 つまり僕はどういうわけか、会社の出張という名目で治療に来ているのだ。

 きっと会社としてもこのご時世に喫煙者を抱え込んでいたくないのだろう。もちろん禁煙に成功しなければならないという思いは、僕にだってある。
 今でさえ無許可の喫煙は犯罪なのだ。これから先、締め付けがよりきつくなるだろうことは、考えればすぐにわかった。
 喫煙そのものが罪。そう遠くないうちにそんな時代が来る。

 アルコールや甘いお菓子、こってりとした揚げ物なんかのほうが、今の腑抜けのようなタバコと比べればよっぽど体に悪いはずだ。
 吸うのは喫煙施設の中でだけ。自宅には基準を満たした喫煙ボックスを設置する。あくまでも人に迷惑をかけない範囲で嗜みたいだけなのだけど、社会にそれを許してもらえなかった。
 どうしたものかと思いながら、封筒をしまい、煙を口に含んだ。天井に向かって息を吐く。白く染まった空気は、すぐに埋め込み式の空気清浄機へ飲み込まれていく。

 それが目に入ったのは、天井から視線を戻した時だ。姿見の中にそびえるのは白黒の塔。
 不要になったタバコを納める回収ボックス。そこに崩れそうなぐらいタバコの箱が山積みになっていた。
 どれも封は開いていたけれど、その中身はまだ残っているように見える。

 この山が今から行く場所を物語っているようだ。
 一箱二千円近くもする贅沢品になったそれを、まだ吸えるというのに誰かが置いていったのだ。

 それも一人や二人ではない。
 両手はおろか両足の指を足しても、ここを訪れた喫煙挫折者の数には足りない。足りるはずがない。一目見てそれがわかった。
 一体どんな治療が行われたのか。考えるだけで憂鬱な気分になる。

 海外ではまだ喫煙が盛んな場所もある。アメリカやオランダ辺りに移住を考えるべきだっただろうか。だが残念なことに喫煙可能な楽園を目指すだけの語学力がなかった。
 こんな味気ないタバコなんていつでもやめられる。吸えなくなっても困ることはない。そう思ったまま、ずるずるとここまできた。

 煙を吐きつつ、箱に目を落とす。
 半年。このまま行けば、半年後には犯罪者だ。禁煙法の施行が翌日になっても、明日になったらやめるとうそぶきながら吸い続けている自分の姿が容易に想像できた。

 だから治療が嫌なわけではない。必要なことだ。ただ、こんな療養所に来ることになったことに、少しだけ話が大きくなりすぎている気がするだけで。
 自分の未来予想図から、我に返ると灰が長くなっていた。今にも落ちそうになっていたそれを、灰皿に落とす。そのまま火をもみ消した。

 せっかくの一服なのに、味わうべきものが欠けている残念でならなかった。昔のタバコには銘柄ごとの味わいと言うものがあったと聞くが、あいにく僕はそれを知らない。
 一服は終わりだ。もう、入所のための確認も終わっているだろう。

 息を一つ吐くと姿見で自分の格好を確認する。置き忘れた荷物もない。
 喫煙室の扉を、エアカーテンの風にふかれながら抜ける。


 外に出れば相も変わらず晴れていた。
 遠く、波の音が聞こえる。
 潮の匂いが鼻に抜けた。

     *     *     *

 最低限の手続きを終えて通された療養所のラウンジ。そこにほかの利用者はいなかった。広々としているのに、僕と向かいの職員の人くらいしか人の姿がない。
 居心地の悪さと反比例するように、随分と座り心地の良いソファだった。
 このままゆったりと背もたれに体を預けてリラックスしたくなるが、そうもいかない。入館証を作るために写真を撮ったり虹彩を登録したりしたが、手続きは続いている。

「お読みになって、問題がなければサインを」

 そう手渡されたタブレット端末には入所同意書が表示されている。内容に軽く目を通して、署名をする。
 簡単にまとめれば、治療は自己責任、思うような成果が出なくても文句を言うな、ここで見聞きしたことに関しては基本的に黙っているように、という事だった。

 送迎してくれた職員の姿はすでにない。代わりに僕の前には白衣姿の女性が座っていた。
 医者だとしたら、ずいぶんと若く見える。かかりつけ医院の老先生と比較したからだろうか。それとも明るめの茶髪や、さりげなく光る赤いピアスが与える印象のせいか。

「関口さん、ご署名ありがとうございます。これも形式的なものですから、この署名によって何か問題が生じることは基本的に無いと思います」

 女性はタブレットへの署名を確認しながらそういった。

「入館証ができるまで、もう少しお待ちください――そういえば、挨拶がおくれました。関口さんの担当をさせていただく佐藤櫻子と申します。できれば名前をよんでいただけると助かります」

 同姓が多いもので、と笑う彼女に頷きを返す。

「わかりました。よろしくお願いします、櫻子さん」
「ありがとうございます。では、入館証が届くまでこちらでの生活について簡単な説明を」

 櫻子さんは身を乗り出して端末を操作する。同意書が閉じられて代わりに表示されたのは施設の案内だった。利用する上での注意事項や館内の見取り図といった項目が目に入る。

「当施設は宿泊のためのホテル部分やホスピタリティ関連の施設、それに研究所で成り立っています。基本的な移動は生体認証とICカードの組み合わせで大丈夫なんですけど、ご宿泊いただくお部屋はアナログキーなんです」
「珍しいですね」

 最近のホテルはどこも生体認証やカードキーばかりだ。
 幼い頃に家族旅行で旅館に泊まったときはアナログキーだったような気がするが、一人で旅行するようになってからは出くわしたことがない。

 賃貸住宅もアナログキーと見せかけて電子キーでタッチするだけのところも多い。エントランスだけじゃ無くて、占有スペースの鍵もだ。
 昔ながらの鍵はゴミ捨て場などの扉を開けるときにしか使わない。
 ディンプルキーですらない、簡単に複製ができそうな形を思い浮かべた。始めて一人暮らしをした、喫煙可の古めかしいアパートはそういえばそんなアナログキーだったはずだ。
 住んで半年も経たないうちに、禁煙住宅に建て替える連絡が来た。近くに住んでいた大家のじいさんが申し訳なさそうに謝罪に来て、敷礼金の返却に加えて支払った家賃の一部返却、さらには引っ越し費用も負担してもらった覚えている。

「電子錠にカードをかざすのではなく、自分の手で鍵をかけるという行為への安心感というのも良いと思うんですけどね。うちの施設はご年配の方の利用者も多いのですが、そういった方に懐かしんでいただけるので居室周りにはアナログキーを使ってるんです」

 泥棒も出ないから良いのだろう。わざわざ他人の部屋に侵入するような用事も発生しない。セキュリティのレベルを高くしすぎても運用が面倒そうだ。
 治療期間が終われば僕たちのような人間は施設を出て行く。人が出入りするたびに情報を入れ替えるより、アナログキーを管理する方が確かに楽だろう。

 案内に目を通しながら、気になった場所があれば質問する。時には櫻子さんがこちらの様子を察して先に説明してくれることもあった。
 食堂は朝昼晩の決まった時間に営業をしていて、基本的にはバイキング形式らしい。コース料理も予約すれば可能。
 素材にこだわっていて利用者に好評だという案内は、こちらに対するセールストークなのかそれとも本心から来るものなのか判断がつかない。昼食を電車内で済ませてきてしまったため、確認するのは夕方までお預けだ。
 コンビニに似た品揃えの売店もある。だけど営業時間は、朝の九時から夕方の五時まで。
 飲料をはじめ、ホットスナックやパン、菓子などを扱う自動販売機は常に稼働しているらしい。
 ラウンジにある喫茶室とバーも朝方まで営業しているという。もともと夜型の生活をしていた利用者や、仕事で夜遅くまで起きている職員への配慮らしい。

「タバコも販売していますよ。興味があれば購入されてみてはどうでしょうか」という言葉には驚いた。何でも禁煙のための更生施設だというのに、タバコが無いなら来ない、なんて人がいるらしい。
 さらに驚かされたのはゼブラだけでなく、昔の銘柄タバコも扱いがあるということについてだった。今では生産が中止されていたと思っていたのに、どうして。

「表向きには禁煙のための施設ということになってます。それと同時に、公表はしていないのですが、文化としての喫煙行為の保護、それに準ずるタバコの研究開発保全を目的として認可を受けてるんです、ここは。半年後を過ぎてもこれは特例で継続される予定なんですよ」

 僕にとっては衝撃的な話だった。楽園は海の向こうではなく、この国にあったのだ。
 無理して禁煙しなくてもタバコが吸える。その事実に思わず、腰を浮かして前のめりになりそうになる。そんな僕を見て、櫻子さんが微笑んだ。

「ただ、どなたでも利用できるわけではないんです。厳しい審査もありますし」

 わざわざ審査の厳しさを匂わされたということは、僕には資格がないのだろう。それが残念で成らない。
 ああ、とうめくような声が漏れてしまった。
 櫻子さんはそれに気がついたのか、困ったような笑みを浮かべていた。
 
 審査が必要だというのであれば、先の利用は諦めるしかない。駄目なものは駄目と見切りをつけなければいけない。
 だけど今で考えれば話は別だ。どういうわけか自分はここに来ることができている。そして売店の使用許可も出ている。
 過去の銘柄が本当に吸えるのであれば、ためしに吸ってみようか。そんな考えが頭に浮かんでくる。
 いやしかし、世の中には知らないほうが幸せな事も多い。一度引き上げた生活水準を下げるのが難しいように、よい煙草を知ってしまったら禁煙なんて不可能になるのではないだろうか。

 そうやって悩む僕を気にしつつも櫻子さんの説明は進んだ。施設内の設備についてだ。図書室、遊戯室、ランドリー、スポーツジム、屋外プールなんてものにはじまりアートサロンやプラネタリウム――そして各所に設けられた喫煙室
 広大な敷地の中に、これでもかと施設が詰め込まれていた。ビジネスでもレジャーでも滞在のための対策は十分だ。それどころか何不自由なく暮らすこともできるだろう。
 喫煙室に至っては外のプレハブ小屋とは違って、ゆったりと吸える環境になっているらしい。椅子にテーブル、軽食を運んでもらうこともできる。
 食事時にたばこを吸えるだなんて。まるでフィクションか、あるいは過去の世界みたいだ。

「僕の住んでいるところよりも、便利そうです」
「基本的には何一つ不自由のない生活を送っていただけると思いますよ。すぐに手に入らないのは衣服くらいでしょうか。これは通販での購入をお願いしています。翌日には届きますよ」

 そうやって話をしていると別の職員の女性が、僕の前にコーヒーを運んできた。白い湯気が渦を巻くようにのぼっていく。一緒に入館証や鍵も持ってきたようで、櫻子さんを経由して渡される。
 入館証としてのICカード、それとやけに細長いキーホルダーの先についた宿泊部屋用のアナログキー。二つを示しながら櫻子さんが説明をしてくれる。

「自室への入退室にはこちらをお使いください。ほかの場所はこのICカードを読み取らせて、カメラに目を映してもらえれば入ることができます。入れない場所もありますが、基本的には関係者以外立ち入り禁止と書かれています。仮に間違って虹彩を示した場合も短いブザーが鳴って、読み取り機の赤いランプがつくだけなのでご安心ください」

「わかりました」と返事をしながら差し出されたICカードを手に取る。プリントされた名前の隣には虹彩を登録する際に一緒にとられた顔写真が印刷されていた。どうもこの手の証明写真は人相が悪くなりがちだ。この入館証の僕も、穏やかとは言えない表情を浮かべていた。緊張が顔に出ているのかもしれない。

「滞在スケジュールですが、関口さんはひとまず一ヶ月とさせていただいております。その中で喫煙に関する講習を一度受けてもらうことになりますのでご了承ください」
「一度でいいんですか?」

 朝から晩までみっちり治療すると思っていたからその言葉に少し拍子抜けして、思わず聞き返してしまった。

「ええ。うちは生活の中で禁煙ができるようになるんです。だから不必要な講習なんて本当は必要ないと思うんですけどね。一応実施しておかないと、禁煙施設としての補助金も受けている面でいろいろと問題があるので」

 不思議な話だ。明確な治療行為もなく、自由な生活を送るように言われているのに、どうやって禁煙を習慣づける事ができるのか。どうにも胡散臭さを感じてしまう。それが顔に出ていたのか、櫻子さんがこんな事を訊いてきた。

「関口さんは禁煙に必要なものと言われて、何を想像されますか?」

 喫煙に必要なものは何か。そう問われて思いついたのは精神論だった。

「根気とか、我慢強さでしょうか」

 昔に比べて喫煙によるニコチンの影響は少ない。ニコチンパッチによる禁煙成功者の数は年々減るばかりだ。電子煙草も大分普及してきて、出回り始めた頃のものよりも健康志向が強い。
 成分による依存とは別のところにタバコをやめられない原因がある。
 吸えない理由があったって、つい慣れ親しんだものを求めてしまうのが人間だ。吸わない自分を長く維持することや、誘惑に負けない強さが必要なように思えた。
 だけど櫻子さんから返ってきた答えは僕の想像とは違っていた。

「禁煙には、パートナーが必要なんです」

 その言葉から頭に浮かぶのは家族とか恋人とかそういった関係性だったが、僕はここに一人で来ていたし、両親は地方で暮らしている。恋人は残念ながら長いこといない。

「その、一人で来ているのですけれど」
「大抵の方は一人でいらっしゃいますからご安心ください。ときおりご夫婦でお見えになることもありますが、そういった場合でも各々にパートナーを用意させていただいてます」

 専門の人員がいるんです。櫻子さんはそう続けると、微笑んだ。

「よくわからないのですが、それは、櫻子さんがそうなのでしょうか」
「いえ、わたしでは残念ながら禁煙させることができないので。というか喫煙推奨派なんですよ。わたしも吸いますしね。ここの職員なのであまり禁煙にこだわる必要もないですし。このご時世ですから禁煙を望むかたへのサポートはさせていただきますけど」

 何かに気がついたように櫻子さんが姿勢を変えた。言葉を区切り、視線を僕の後方へと向ける。

「ちょうど良かった、紹介しますね」

 櫻子さんの声と視線につられるように体ごとひねって後ろを向いた。床に敷かれた赤い絨毯の吸音性も手伝ったのだろう、足音もなく長い黒髪の少女が歩いてくる。
 相手を少女だと判断したのは、彼女が制服の様な服を着ていて、高校生のように思えたからだ。ひどく、場違いな存在ではないだろうか。

「彼女が関口さんのパートナーになります」

 僕の目の前に立った場違いな彼女は、口角をあげながらも眉をひそめていた。
 口元は笑みを浮かべて愛想を良くしようとしているように思える。しかし目のあたりを見れば困ってもいるように見えた。なんとも複雑な表情だった。

 ただ、視線に込められたものだけはわかる。値踏みするようなまなざしだ。
 居心地が悪い。就職活動の時の面接で、ああこれは落ちたなと感じた記憶がよみがえる。僕自身ではわからない何かを見られているような気分だった。そのときの合否は覚えていない。きっと落ちたからだ。

「思っていたより、若いのね」

 一瞬、それが彼女の声だと認識できなかった。
 頭の中で勝手に見た目に引きずられて、女の子らしい声を想像していたのだろう。実際の彼女の声はどこか控えめで、ハスキーとまではいかないが独特な声質だった。
 それにしても、若いはない。気にしていることを指摘されて、思わず苦笑いを浮かべる。
 僕の様子に気がついたのだろう、彼女は少し慌てたように続けた。

「気にしていたならごめんなさい。悪気があったわけじゃないの」
「いえ、大丈夫です、えっと」
「徒花ってよんで」
「あだ、ばな?」

 変わった名前の彼女は僕の声に対して、少し困ったように微笑んだ。

「ええ、外国で生まれたから苗字は無いの。それと、絶対に呼び捨てにして。さんづけなんて他人行儀で好きじゃないから」
「僕は――」
「明でしょ? 関口、明」

 あなたの事なら知っていたわ。徒花はそういうとおもむろに僕の膝の上に座ってきた。突然のことにあたふたと戸惑う僕のことなんて気にしないようで、しなだれかかるように腕を肩から背中へと回してくる。
 顔と顔が近い。彼女の髪が僕の鼻先をかすめた。いい匂いがする。甘いお菓子みたいな。

 どうして相手がこんなことをするのかわからなかった。だからといって乱暴に振り払うわけにもいかない。隣には空席があるのに、どうしてこんなことに。

「関口さんにはこちらに滞在する間、彼女と生活を共にしてもらいます」

 少女の行動に慌てている僕の事を気にすることなく、櫻子さんは念を押すように言った。

「なにせ二人はパートナーですから」


「その、パートナー、ですか。その仕組みについてもうすこし詳しい話を」
 僕は徒花をよけるように顔を覗かせて、櫻子さんに説明を求める声をかける。
 仕事上のパートナーとか、そういうものならまだわかる。だけど、禁煙のパートナーとはなんだ。それはこういう行為を含むものなのだろうかと、膝の上の少女の事を思う。

「パートナーはパートナーですよ。お二人が一緒に居れば、禁煙成功間違いなしです」

 櫻子さんはそう言うと立ち上がり、部屋を出ていこうとする。まだ聞きたいことがあるのだけど、膝の上の少女を乱暴にどけて立ち上がるわけにもいかない。

「そうそう、教えなければいけないことがあるんです」

 櫻子さんは振り返りこちらに向かって笑いかけてきた。

「タバコって実は、体に悪いんです。肺が真っ黒になってしまうんですよ」
「ええと、それはよく知ってます」
「よかった。では、弊施設で行う禁煙講習は以上となります」

 言葉が出なかった。戸惑いが強くて何を言えばいいのかわからなかったからだ。喫煙免許取得時の禁煙啓発ビデオのほうがよっぽどタバコの害を強調している。こんな場所で本当に禁煙できるのだろうか。なにより、膝の上のこの子はどうしたらいいんだろうか。

「以上で講義は終了になります。あとは一ヶ月、自由にお過ごしください」

 毎日のカウンセリングは受けるようにと告げ、櫻子さんは手を小さく振って去って行った。職員用の部屋があるという区画へ歩いていく彼女は、こちらには目もくれない。
 そうして僕と、膝の上の徒花だけがその場に残された。
 僕の思考が停止していたのは、たぶん、ほんのわずかな時間だった。立ち上がるためにどいてくれと頼んでみたのだが、予想外に座り心地がよかった、と少女は降りる気配を見せない。長いまつげが僕の眼前でぱちぱちと上下運動している。

「一緒に生活するって、どう言うことなんだ? 君は納得しているの?」
「ベッドの中までは付き合わないわよ。日中一緒に居るだけ」

 徒花が僕の瞳を覗きこんでくる。今まで付き合った恋人がいなかったわけではないが、こんなにまじまじと見つめあったことは無いかも知れない。随分と大きな黒目だった。可愛いのだけれど、なにか有無を言わせない迫力があった。会社のお局様が新入社員の男性に向けるまなざしにもどこか似ている。さっきも感じた、値踏みだ。
 何かを見極めようとしているのだろうか。だとしたら、一体何を。

「納得しているに決まってるわ。だってあなた、こんな状況でも襲ってこない。指も触れないように浮かせちゃって。今まで見てきた男たちに比べたらかなりまともだもの」
「襲ってって」
「据え膳みたいなこの状況で手を出さない。それにタバコが好きなのでしょ?」

 僕は頷こうとしたのだが、頭を下げれば彼女に額をぶつけてしまいそうで、ほんの少しだけ動くしかできなかった。歯医者で口を開けたまま返事をしなければならない状態に似ているなと感じた。痛かったら左手を挙げればいいのだけど、どいてほしいときはどうすればいいのだろうか。曖昧な返事しかできないのが少しもどかしい。
 現実逃避から我に返っても、相変わらず彼女の顔は近くにあった。息がかかるほどの距離だ。じっと見つめているのも悪いと思って視線を知らすのだけど、どうやっても彼女が視界に入ってくる。黒く長い髪。透明感と言う表現が似合いそうな白い肌。頬は少し赤みを帯びている。唇にはグロスが塗られていてつややかだ。
 そうやって口元を見ていると気がつくことがあった。彼女の口の中に、何かもやのようなものが漂っていて、喋るとそれが少し口からもれだすのだ。

「なら、あたしはあなたの事を気に入るだろうし、あなたもあたしのことも気に入ってくれるはず」

 それだけで十分だわと続け、徒花は僕の鼻先にふぅと息を吹きかけてきた。やはり見間違いではなかった。冬に吐き出す吐息のように、それは白く染まっていた。
 どうして。なんて疑問をさしはさむ余地は無かった。それを考えるよりも前に、鼻の奥に嗅いだ事のない匂いが広がって、思わず呆然とする。それがタバコと同じようなものだと、考えるよりも前にまず体が反応した。
 彼女から与えられた煙を口の中にため、そして肺に落としこむ。
 最初に感じたのはほのかに感じる、花にも似た甘さだった。だけど、そんなに単純じゃない。ハーブの清涼感がつづき、ラム酒の匂いも感じ取れた。旬の果実の瑞々しさ。それに香ばしいナッツのようなものも。
 かぎ分けるのは得意ではない。わかったのは色々な匂いが、絶妙なバランスで混ざり合っているということだけだ。不思議な事に、人の口臭めいた生臭さは欠片も感じなかった。

 ああ、それにしても。風味のある人肌の煙がこんなにもうまいだなんて。

 それは今までどこで吸ったタバコよりも美味く感じられた。肺に入れた煙をゆっくり吐き出すと、しばらくのあいだ身動きすることもなく呆けていた。
 膝の上の彼女がこんなにも間近で見つめてきているのに、その視線も忘れてしまって。


 我に返ったとき、徒花はいつの間にか膝から降りて隣に腰かけていた。僕の意識がはっきりしたのを見てとったのだろう、先に立ち上がると僕に向けて手を差し出してきた。それをためらいがちに掴むと立ち上がる。柔らかく小さい手だ。

「全部は無理だけれど、中くらいは案内してあげるわ。行きましょう?」

 立ち上がっても手はつなぎ直されて放してもらえない。乱暴に振りほどくわけにもいかず、少し先を歩く徒花の後ろをついて施設内を見て回る。あくまでも使うであろう場所の確認程度の物だ。それでも結構な距離があった。少し疲れを感じる頃にラウンジに戻ってきた。

「このラウンジには喫茶室とかがあるわ。声をかければどこにでも注文を運んでくれる」

 スタート地点に戻ってきて、僕の手は解放された。少し汗ばんでいて、空気に触れたところが冷たく感じる。彼女は不快に思わなかっただろうか。少し申し訳ない気持ちになる。
 徒花に視線を見るが、彼女に変わった様子はない。なんにせよ、一度話をする必要がある。
「よければ、ちょっと話でも」と僕は喫茶室を指さした。

 聞きたいことは山ほどあった。他の利用者がどうやって過ごしているのか、禁煙することができるのか、パートナーとは何か。彼女が何を知っていて、どこまで教えてくれるのかはわからなかったが、聞くだけ聞いてみるのはいいだろう。

「なら、軽い食事をとってもいい? お昼をたべそこねたの。昼過ぎに貴方が来るって聞いたから、最高の状態で待ってたのよ」

 僕の返事をまたずに、徒花は歩き始めた。

「ここも食堂も空いている席なら自由に座っていいの。おすすめは庭が見えるあたり」

 そういう徒花の案内で、窓際の席を選んだ。窓の外には南国を感じさせる、色鮮やかな花が咲き乱れている。手入れされた庭を散策できる遊歩道が続いていて、遠くには海が見えた。
 既に何人かの客がいて、その誰もが隣に少女を連れて楽しそうにしていた。それなのに、不思議なほど静かだった。ときおり食器がたてる甲高い音が、やけに響く。
 けして彼らの間に会話が無いわけではない、ときおり笑い声が聞こえてくる。僕はどうだ。向かいに座った徒花と何を話せばいいのかわからず、さっきから沈黙が続いていた。耐えきれずにメニューを見ながら何かおすすめがあるか聞いてみたのだが、「どれもおすすめよ」と返されて会話はそれ以上続かなかった。
 のぞき込んでいたメニューから顔を上げる。目の前に座った徒花はもう何を頼むか決めているようで、僕のほうをじっと見ていた。

「そういえば、学校は?」

 僕は馬鹿だろうか、それよりも前に訊くことなんて山ほどあるじゃないか。たとえば、そう、年齢とか。もっと踏み込んでパートナーの事についてとか。いや、それよりも何よりも口から出る煙について訊ねるべきだろう。

「ああ、これ、可愛くない? いかにもありそうな、制服っぽい見た目でしょ? だけど学校にはいってないの。事情があって。でも勉強は人並みにできると思うわ」

 そういうと彼女は僕に理解できない言語で何事かをつぶやいた。

「わたしはタバコが大好きですって。オランダ語よ」
「すごいな」嘘か本当かわからないが思わず感心した僕をよそに、彼女は近くを歩いていた店員を呼びとめ、「いつもの」と手早く注文していた。
 店員の視線を受け、慌てて僕も珈琲と本日のケーキセットを頼む。コーヒーだけでもよかったのだけど、なんとなくセットがあると少し割引がきくことが多いのでそっちを頼んでしまう。だけどここのメニューには料金が書いていなかった。一体いくらになるのだろうかと気にしていたら「失礼します」と虹彩をスキャンされた。

「そういえば基本的にここでの飲食にお金はかからないからね。そりゃ、毎日フルコースとか、限度も知らずにたっかいお酒を飲み続けるとか、そういったのは別料金。案内にもあったと思うけど、指定されたところでの食事は基本費用に含まれているから。いまのは誰がどこを利用したか管理しているだけ」

 疑問が顔に出ていたのだろうか、徒花が説明をしてくれた。先回りされてるとでも言えばいいのだろうか、さっきからこういうことが多い。

「櫻子からきかなかった?」
「言ってたのかもしれないけど、聞き逃したのかもしれない」
「呆れた」といって徒花は残念なものでも見るような視線を僕に向ける。
「しょうがないだろ、僕もまだ困惑してるんだ。突然、会社から指示されて、ここに来ることになったんだよ」
「ああ、ごめんなさい。きっとあなたの勤め先もよくわかってないと思う。だけどねそれはきっと、全部あたしのせい」

「君の? どうして?」という問いかけに、徒花は「秘密」と言って微笑む。

 タイミングを計ったようにコーヒーが届いた。一緒に運ばれてきた今日のケーキはクリームが添えられたフルーツタルトのようだった。イチゴを中心にしてふんだんに果物がのったそれは、都内で食べればセットでも千円を超えそうだった。軽食を食べたいと言っていた彼女の前にはミネラルウォーターと、花びらを散らしたサラダが運ばれてくる。それだけで腹が膨れるのだろうかと心配になる。
「肉とか食べないの?」そう訊ねたが「食べないわ」とまた会話が途絶えてしまった。だけど何か聞くことがないか考える僕と同じように、徒花も沈黙をよしとしなかったようだ。サラダをつついていたフォークの動きを止めて、彼女が僕をみる。

「あたしね、肉や魚は食べないことにしているの。タンパク質は豆とかで補ってる」そう言って彼女は皿に目を落とした。「体臭って食べ物によって変わるけれど、口臭なんてもっと変わるわ。ハーブや果物を食べて、健康的な生活をして、気を使わなくちゃいけない」

「どうして?」僕は何も考えずにそう口にしていた。
「どうしてですって?」徒花は少し目を見開いて僕の質問を逆にきき返してきた。おまえがそれを訊くのか、とでも言いたそうだった。

「あなたのような――いいえ、あなたに」

 言葉を区切って徒花は水を一口ふくんだ。白い喉元がこくりと動く。彼女が塗れた口元を紙ナプキンで押さえるようにぬぐったかと思うと、不意に僕の顔へ煙を吹きかけてくる。

「味わってもらうためにきまっているじゃない」

 食事中の喫煙はマナー違反じゃないかとおもうが、食事をしているのは彼女のほうで、僕はコーヒーを飲んでいるだけだからいいのかもしれない。なにより僕がその煙を味わう側で、文句が付けにくい。
 さっきから事あるごとに彼女はこうやって息を吹きかけてくる。僕はそのたびについそれを味わってしまう。その煙はタバコではない。吐息だ。それを認識して、まるで変態みたいだなと自己嫌悪に陥るのだ。

 余韻に浸ってぼんやりとしたまま、食事を再開した徒花を見る。姿勢を正して行儀よくサラダを口に運んで行く。僕は煙の味が薄れたころを見計らい、コーヒーに口をつける。美味い。
 コーヒーを味わっているあいだ、目の前のケーキを忘れていたわけではない。食べようかなと思ってケーキに視線を落とすたび、徒花もつられて目を動かすのがわかった。どう考えても、食べたいのだろう。

「ねえ、よければ一口もらえない? 見ていたら食べたくなってきちゃった」

 僕が良かったら食べないかと聞こうとするより少し早く、徒花がそう言った。いつの間にかサラダは綺麗に食べつくされていた。


「よければ、全部」そう言って皿ごと差し出してみれば徒花はうれしそうにフォークを手にする。

「ケーキは食べてもかまわないの?」
「別腹っていう、便利な言葉が日本にはあるじゃない」と彼女は笑った。
「それにね、男の人って、女からは甘い匂いがしたほうがいいのでしょう?」

 周りのフィルムを器用にフォークではがしながら徒花は続ける。

「だからときどき食べるの。バニラや、ショコラ、それに果実、バターなんかの匂いをさせるために」

 そう言って口にケーキを運んだ徒花の頬が、みるみる緩んでいくのがわかった。最初は大人びて見えたが、今の彼女の様子は年相応に思えて微笑ましい。

「なに笑っているの」
「甘いものはおいしいもんな」
「……そうよ、ケーキは美味しいもの。あたしもケーキみたいに、美味しくなりたい」

 ただそれだけ。そう言って笑う彼女の耳は少し赤くなっていた。


 一日目はそうやって何事もなく終わった。結局、煙の事については詳しく聞けなかった。話をそちらに進めようとするたびに、徒花にうまくかわされるのだ。
 宣言通り夜は一緒に過ごさないらしく、彼女は七時ごろに部屋を出て行った。明日からは一緒に夕食をとることになったけど、今日は一人だ。ルームサービスを頼み、その後はやることもなく、シャワーを浴びると眠ることにしてベッドに潜り込む。

 随分と変なところに来てしまった。本当にこんなところで禁煙できるのだろうか。
 もやもやとした考え事を巡らせながら、眠りに落ちる直前に気がついた。
 欠かしたことが無い、寝る前の一服を忘れていた事に。