今まで見守ってくれてありがとう
近隣に「頭おいてけよ」という変質者が出るという。出会ったらどうしようかと思っていたのだけど、今日の夕方、暗がりから声をかけられた。「頭、おいてけよ」その言葉に驚くでも恐怖を感じるでもなく、自然と髪をかき上げて首をさらけ出していた。「どうぞ」「うむ」痛みもなく、頭は取れた。帰ろう。
おもえばできの悪いわたしに付き合ってくれた頭だった。今までありがとう。それにしてもこれからどうやって生きていけばいいのだろうか。世界の見え方は変わっていた。視力が失われたので、空気の流れや気配といったもので捉えるほかにない。とりあえずは家に帰らなくちゃ。まずは、そこから始めよう。
子供のころから首周りに切り取り線があることには気づいていた。だから目をつむって歩く練習もしていた。だから今も歩くことができる。手話もできる。食事だけはどうすればいいかわからないけれど。ゆっくりと足を進めると背中にあたたかな視線を感じた。それは鏡を見た時に感じるものによく似ていた。
足が止まった。振り返り、変質者と抱かれたわたしの頭だったものにかけよる。せめてお別れを。そう思っておずおずと伸ばした手に、頭をのせてくれた。わたしは自分の頭を抱きしめる。名残惜しいけれど、いつまでも引き留めるわけにはいかなかった。これからこの体で生きていかなければ。さよなら、頭。