おいしい煮つけになりたい

唐瓜直が何やら日記を書いたり、即興創作(140文字×X+α)したり、メモしたり。というブログ。

おまえは今まで聞いた物語の話数を覚えているのか?

 昔のことだ。僕がまだ子供のころのこと。

 流れの百物語一座が来るというので、町内会は盛り上がっていた。もちろん僕の家も。父さんと母さん、それに妹。家族で近所の神社に張られた巨大な赤テントに入ると、隣の佐々木さんとか、久美ちゃん家もすでにきていた。中央には蝋燭がともされていて、みんな車座になって公演が始まるのを待っていた。

 やがて僕たちが入ってきたのとは別の場所から一団が入ってきた。一座の人間だ。彼らが僕たち観客のさらに内側で車座になる。すると照明が落とされて、中央の炎の揺らめきだけが残った。何が話されたのか残念なことに僕は覚えていない。それはあの場で話された内容だけではない。父と母の、顔なんかも。

 その失われた記憶の中で覚えているのは、ふいに隣から消えた両親の気配だ。本当はこんなところに来たくなかった。怖い話なんて聞きたくない。僕は目をつむって耳もふさいでいた。それでも何事か、言葉が手のひらを通り抜けて僕の体を、あるいは魂とかそういうものがあるとすれば、それまでも揺らした。

 一話終わった。また次の話が終わった。そうする度に、蝋燭が消される代わりに僕を何かが揺らす。そして、ある時その揺れと同時に、隣にいたはずの父が消えた。次いで、母も。目を開けなくても、ふっ、とその気配が消えるのがわかった。いや、それだけではない。あたりから次々と人の気配が消えていく。

 僕が目を開けたのは、妹が僕の手を引っ張ったからだ。「にいちゃん」と僕を呼ぶ妹は何が起きたのかわからない様子でこちらを見ていた。「みんないない」というのだ。あたりを見れば残っているのは久美ちゃんとか僕たち子供ばかりで、百物語の一座の人間も、若そうなお兄さん一人になってしまっていた。

 ほかの人は真っ黒な服だったけれど、お兄さんは濃いグレーの服を着ている。ちょうど話を終えたところだったのか、こちらを見た。「君たち、百物語は初めて?」と訊ねる高い声が女の人のもののようにも思えて、僕は少し戸惑いながらもうなずいた。「そうか、お父さんと、お母さんから話は聞いてない?」

 僕が答えるよりも前に、妹が首を振った。「うちの一座の話は、百話聞くと何かが起きるんだ。語り手も同じ。大抵は、ふっと消えてしまう。今日出てた一座の人間も、消えてしまった」だから今日はおしまい、と彼はつづけた。消えてしまった一座の構成員を確保するための行脚に出るのだとも教えてくれた。

 あれから僕と妹は二人で支えあって生きてきた。僕には気が付いたことがある。彼ら一座以外の口から語られた不思議な話、怖い話、そういったものを聞いても、百物語と同じように僕の中の何かが揺れる。カウントが進んでいくのがわかった。ゆっくりと、ゆっくりと。それはきっと妹も同じだったのだろう。

 妹はあの日の彼に恋をしていた。いつか再び話を聞きに行くのだろうと思っていた。だから今日、町で赤テントを見かけたときに思わず立ち止まった。結局、家に帰ってこなかった妹のことを思う。あの彼に会えたのだろうか。消えた先で、父と母には会えただろうか。僕は一人、耳をふさぎながら生きている。

 あの日から、不可思議な話を聞くのが怖い。いつ、僕の許容量が限界を迎えるのか、それが怖い。町ですれ違う人、飲み会の席の与太話、そういったものを聞くたびに、あの日と同じ何かが俺を揺らしている。いくつの話を聞いたのか、耳をふさいでしまっていた僕には、わからないのだ。消えるその瞬間まで。

 消えることは怖くない。仕方がないことだ。あの日、一話目を聞いてしまったことで、僕の中のスイッチが入ってしまったのだ。そのオンオフを切り替えるすべを僕は知らない。消えた先には何があるのだろうか。もし父も母も妹もいない暗闇だったら。それがわからないのが何よりも、怖い。ただそれだけだ。