おいしい煮つけになりたい

唐瓜直が何やら日記を書いたり、即興創作(140文字×X+α)したり、メモしたり。というブログ。

肺煙少女サナトリウム 後編

     *     *     *

 施設での生活は何事もなく過ぎていく。ここで何をしていたかと言えば、何もしていない。社会人にあるまじき、起きて寝るだけに等しい自堕落な生活をしていた。
 毎朝目覚めれば徒花は勝手に部屋に入り込んでいて、僕が起きるのをベッドの端に座って待っていた。アナログキーの合い鍵を持っているという彼女は遠慮を知らなかった。
 ためしに鍵を開けても入れないようにと、ドアロックもかけて寝てみたこともある。翌朝、徒花は扉の前で仁王立ちして僕が出てくるのを待っていた。僕を出迎えた彼女の気迫に負けて、ドアロックはかけないことに決めた。

「それでいいのよ。明は、あたしを受け入れればいいの」

 いいように扱われているような気がするが、なぜか不愉快な気持ちはわかなかった。相手は随分と年下の子だというのに。
 ここでの生活は夢心地だ。眠りにつく前、朝になれば徒花の姿はそこに無いんじゃないかと思う。そして見なれたワンルームに戻っているんじゃないか。そんな気にもなる。
 仕事を離れているのがよくないのかもしれない。きっと頭がついてきていないのだ。学生時代以来の、あまりにも長い連休。しかもホテル住まいで、可愛らしい少女の吐く、薫り高く、肺から全身へ染み渡るような白い息もついてくる。
 何故かタバコを吸う気にならないことも、この非現実的な感覚を助長させている。タバコの煙が彼女の白い息に置き換わった。たったそれだけで生活の現実味がなくなった。
 カウンセリングと言う名の世間話でぽろっとそう呟いたが、今日も白衣姿の櫻子さんは笑いながら「禁煙が上手くいってるってことですよ。タバコを吸わない、そのためにここに来たんじゃないですか」と僕に告げる。

 診察を受ける部屋には、向かい合わせに置かれた一人がけソファが一組。それに腰掛けた僕と櫻子さんの間にはローテーブル。ほかに調度品は何もない。対面で座り、話をするだけの部屋だ。
 カウンセリングというものを受けたことがなく、緊張もしたが、二回目には慣れた。実際の治療で行われるものがどんなものかはわからないが、ここではただの雑談に等しい。

 彼女の肩書きはドクターだと、初回のカウンセリングで教えてもらった。
 ドクターと言っても医者ではなく、タバコの研究者なのだという。櫻子さんは医学はおろか心理学にも縁が無いらしく、カウンセリングと銘打たれているものの、本当にただの世間話のようなものだった。
 何か相談に乗ってくれたりするわけでもない。ただタバコを吸いたいかどうか訊かれて、その後はとりとめのないことを話す。

「関口さんは、どうしてタバコが好きなんですか?」

 櫻子さんが僕に質問をしてきたのは初めてだった。何度目のカウンセリングだろうか。療養所での生活にも慣れてきたが、それにつれて曜日や日時の感覚が薄れてきていた。
 どうして、と言われても困る。なんとなく吸い始めて、やめられなくなっただけだ。背伸びがしたかったわけでも格好いいと思ったわけでもない。例えば多くの人が口にする酒と同じように、法律で許されたから試してみただけだ。

「葉巻や紙巻きタバコは今回の件で禁止されることになっているけれど、噛みタバコや嗅ぎタバコ、水タバコ、電子タバコなんてものは今回の規制には引っかからないじゃないですか。そっちにシフトすれば禁煙なんてしなくて良いですし」
「どうしてでしょう、煙が好きなのかもしれません」

 僕はニコチンにはそれほど興味が無い。役所に行けば手に入るという、不便ながらも比較的簡単に買えることが大切で、そこまで労力をかけてまで味わいたいわけではない。
 味わうとしたら煙だ。一部の電子タバコで導入されているような水蒸気でごまかされたりしない。煙が一番良い。
 比べてみたわけではないけれど、きっと。

「ここにお見えになる方には、共通点があるように感じています。おそらくなんですけれど、関口さんも同様に、日本で吸う国産の煙が好きなのでは」

 国産のタバコ。国産の煙。国産の少女の息。

「徒花は国産です。思うに、金髪の子が相手だったら貴方は嫌悪感を覚えるんじゃないでしょうか。それ自体はおかしなことはありません。だってここは日本ですから。何にだってその土地にあった味というものがあります。料理も、飲み物も、タバコも、彼女たちも。――徒花は、オランダで働いていたんです。お金持ち相手に、煙を提供する施設で」

 少女によって煙を提供される。つまり、自分が置かれている状況と同じだ。

「オランダも他の国に比べればまだましだけど、やっぱり禁煙が進んでいるんです。だけど彼女たちの口から出る煙は、タバコではないとみなされて、タバコの代わりにたしなみに来る人がいたんです。オランダではあの子はあまり人気が無かったみたいで。最初の一口を物珍しさで試してみる人がいるくらいで、あまりリピーターはいなかったみたいです」

 食べ物や飲み物の味付けは、その土地にあったものがある。それはよく聞く話だ。海外で味わった香辛料のきいた食事。浴びるように飲んだ地ビール。帰国後に同じものを味わってみても、何かが違うという。
 徒花が海外ではあまり受け入れられなかったのも、きっとそう言うことなのだろう。日本で生まれ育ち、生活を続けている僕にとっては、あんなにも美味しいのに。

「徒花とはずいぶんと仲良くしてるみたいですね」
「そんなことは無いですよ。ただ、とにかく現実味がないんです。朝起きると、制服姿の女の子がいるんですよ?」
「ですが、嫌いではないのでは? 最初からずっと呼び捨てにしてるじゃないですか」

 思わず言葉に詰まった。最初に徒花がそう呼べとは言ってきたが、さんづけとか、慣れないけれどもちゃんづけとか、確かに呼びかたはいくらでもあっただろう。

「気づいてなかったんですか」

 櫻子さんはそんな僕を見て笑った。

「きっと徒花に手のひらの上で、転がされてるんですね。あの子は誰に似たのか、人の懐に入り込むのが上手な子なので」
「そうでしょうか」
「そうですよ。現にわたしよりかはよっぽど気楽に接してるみたいじゃないですか」

 そう言ってほほ笑む櫻子さんを見ていると、なぜだか徒花の姿が浮かんだ。全体的な雰囲気が似ているのだろうか。僕の視線に気がついた櫻子さんが、首をかしげた。


「それではまた明日」
 櫻子さんに見送られてカウンセリング用の部屋を後にすると、徒花が立って待っていた。
 他の部屋の前でも少女たちが椅子に座ってパートナーの戻りを待っていた。彼女たちも徒花と同じように、口元に白い煙を漂わせている。
 徒花はいつも、壁に寄りかかるように立って待っている。座って待ってればいいと最初に言ったのだけれど、彼女が他の少女のように座って待つことはなかった。
 出迎えてくれた彼女に「お待たせ。徒花さん」と声をかけてみた。

「どうしたの、気味が悪い」徒花は眉間にしわを寄せて口を開いた。

「気味が悪いは、ひどくないかな」
「どうせ櫻子に何か吹き込まれたんでしょ。それで簡単にころりと転がされたんだわ」
「そこまで親しくもないのに、呼び捨てって言うのもどうかと思っただけだよ」
「親しくない?」

 ずいっと背伸びをするように身を乗り出した彼女の顔が、目の前にあった。長いまつげ、黒い瞳。きめ細やかな肌。
 油断していた僕に、彼女の息が吹きかけられた。ちょうど息を吸うタイミングで、肺に直接広がった彼女の匂いに僕はむせ返った。

「毎日毎日、何度も何度も、こんなことをしているのに親しくないだなんて、あなた、普段は相当ただれているのね」
「君がしてきてるんじゃないか」

「嫌いじゃないくせに」僕の事を見透かして、彼女が言う。

 ああ、そうとも。嫌いじゃない。それどころか日に日に徒花の息から逃れられなくなっていく自分を実感していた。

「今日はどうするの? また一日中だらだらしているの?」

 彼女におぼれ始めていることをばれないように、平生を装う。やりたいことは無かったが何もしないのもどうかと思い「いや」と口ごもりながら何かないかと視線を壁に向ける。額縁に納まった海の写真が目にとまった。

「せっかくだから泳ごうかな」


 僕の提案で徒花も屋外のプールについてきた。今はプールサイドのパラソルの下にいる。紫外線に弱いという彼女とは、確かに屋内でばかり過ごしていた。
 プールには僕ら以外には誰もいなかった。飲み物を運んで来た職員がいたが、徒花にグラスを渡すと帰って行った。

「上手なのね」ジュース片手に徒花がそういった。意外さを隠そうともしていない。

「小学生の頃、地区で一番早かったことがある」

「へえ」と声を上げた徒花が泳ぎ方をリクエストしてきた。クロール、背泳ぎ、バタフライ。意表を突いて犬かきをするとウケた。
 ここに来てから毎日顔を合わせているけれども、笑いすぎて顔を赤くした彼女の姿は珍しいように思う。

 それほど大きなプールではないけれど、久しぶりに泳ぐと短い距離でも疲れを感じる。往復するたびに休憩を兼ねて徒花と少し話をする。

「今度、海に行くのはどうだろう。日差しがちょっと強いかもしれないけれど、気分転換には悪くないんじゃないかな」
 プールサイドでジュースを口にする徒花を見上げながら、そう声をかけた。

「そうね、こっちの海にも一度行ってみたいわ」
「行ったことないの?」

 小さく頷く徒花の顔が陰る。日影の中の彼女を、見上げる形になっているからだろうか。

「ねえ、それより、明が泳いでいるところをもっと見たい」

 彼女の言葉に僕はもう一度泳ぎはじめた。耳元を覆う水音に混ざって徒花の声が聞こえる。

「あたし明の泳ぐ姿が好きよ」

 彼女のその声に、思わずプールの真ん中で立ち止まった。徒花のほうを見る。どうして泳がないのかといった感じで、こちらを見ているだけだった。幻聴だったのだろうか。
 気を取り直して泳ぎ直し、慣れてきたこともあってしばらく往復を続けた。だけど泳ぐのは久しぶりで、運動不足もたたっている。やがて体が少し重くなってくるのがわかった。

「お疲れ様。上がって少し休んだら?」

 何往復しただろうか。徒花の元へ戻ると声をかけられた。いつの間に頼んだのか僕の分らしきグラスを持っていた。

「そうだね、そうするよ」

 答えながらプールの水から上がろうとして、今まで気がつかなかったものが目に入った。
 敷地の一角に見えたのは巨大な円柱だ。煙突だろうかと思ってさらに視線をあげていくと、予想よりも随分と高い建物だった。そのせいで体の重心が後ろに崩れて、プールの中に倒れこんだ。鼻から水が入って少しむせる。塩素の匂いが鼻の奥で暴れていた。
 水面に上がり咳きこむ僕を見て、徒花は笑う。その様子を見て気がついた。
 眉間にしわを寄せないで微笑む徒花は、櫻子さんによく似ていると。

     *     *     *

 療養所での生活にも慣れてきたが、未だに時間のつぶしかたに困ってしまう。
 今日は徒花とゲームをすることになった。彼女が取り出したのはリバーシだ。
 僕が使ったことがあるものはマグネット式のものだったが、盤も石も違っていた。その見た目や質感から玩具ではなく高そうな調度品に思えてくる。
 果たしてこれで遊んでいい物なのかと悩んだが、徒花が臆した様子もなく石を並べ始めたので覚悟を決めた。
 かち、かち、と重量感のある石を置くたびに澄んだ音が響く。
 何度やっても徒花には勝てなかったが、むきになっていたのだろう。再戦の条件としてケーキをおごることになり、さらにこの勝負では負けたら何か一つ言うことを聞くことになってしまっていた。
 彼女の事だから簡単な要求を、たとえばバタフライで泳いでみてほしいとか、その程度の事を伝えてきて、そして笑うのだろう。本当に、手の上で転がされているようだ。だからこそ負けたくなかった。

「そういえば、プールで泳いでいるときに煙突みたいな建物が見えたんだ」しゃべりながら角に黒を置き、白をひっくり返していく。「あれは何なんだろう」
 盤面は僕が有利なように見える。だけれど見えるだけで、こういう状況からも徒花に負け続けているのだ。今回も負けるのではないかという確信めいた予感があった。

「あれは昔使われてた焼却炉よ。今は新しいものがあって、もう使われていないけれど」
「ゴミを燃やしたり?」
「そうね、いろいろと」

 かちかちと音を立てながら石を返していく。ひょっとしたら勝てるかもしれないが、油断はできない。さっきから序盤は優勢、なのに中盤から雲行きが怪しくなる。後半になると目も当てられないというパターンが多かった。嫌でも学習する。

「こういう考えかたも似るものなのかしら」盤上を見ながら徒花が小さく呟いた。
 彼女の細い指によって盤面の黒が少しずつ白くされていく。大きく枚数をとることは無いが、徐々に僕の陣地が奪われていく。
 終わってみればかなりの接戦のようだ。端から埋めていけばいいのに、なぜか徒花は一列飛ばしに並べ始めた。仕方なく、僕は空いた列を自分の色でふさいでいく。そうして盤面の上に出来上がったのは、白と黒の綺麗なストライプ。引き分けだった。

「これ、狙ったの?」
「何のことかしら? でも、いい模様よね。シマウマみたいで嫌いじゃないわ」徒花が僕の胸元に視線をやった。そこには僕が持ち込んだタバコが相変わらず入っている。
 徒花は「それじゃ、これでおしまいにしましょ」と笑いながら立ちあがった。
「もうお昼になるわ。食堂に行ってご飯を食べましょう?」

 そう言って徒花は僕の鼻先に息を吹きかけた。
 煙を吸ってぼんやりとした頭に、引っかかる言葉があった。
 考えかたも似るものなのかしら。徒花に続くように歩き始めながら考える。一体、徒花は何を見てそう呟いたのか。リバーシの指しかただろうか。

「何が似てるんだい?」
「昔の、お客さん。よくチェスで負けて、もう一戦ってねだってきた」何気ない問いかけに、徒花は応えてくれた。「……聞いてない? オランダで働いていたの」

 櫻子さんの話を思い出す。人気は無かったけれども、徒花を気にいった客もいたと。
「その人と、僕が似てるのか」
 自身の考えを確認するつもりの言葉が声に出ていた。それに徒花が小さく頷きを返す。
「君がパートナーになったのはそれが、関係してるってこと?」
「モニタリング数値が、その人に近くって。あたし、不味いって言われていたから」
 目を伏せて視線を合わせようとしない徒花は、声もだんだんとしぼんでいく。どうしてだろう。こちらをうかがうその様がひどく彼女らしくなかった。
「数値が似ていれば、味の好みとかも似ているのじゃないかと思って、それで」
 彼女はこういう時にも眉間にしわがよるらしい。声は弱々しさを増して、いまや何かにおびえているようだった。何に? きっと、僕に。
「その人の代わりってことかな?」
「違うの。似ているのも理由の一つかもしれないけれど。直感したの。あたしはあなたを愛することができて、あなたもあたしを愛してくれると思ったのよ」
「へえ、そうなんだ」僕は何事も無かったように短く返事をして歩き出す。
 徒花は立ち止まったままだ。だから、彼女の声を全部聞くことはできなかった。

「あなたならあの人と違って女としてではなく、あたしを――として愛してくれるって」

     *     *     *

 どこか味気ない食事を終え、時間はあっという間に過ぎた。
 ぼんやりしていたのだろう。徒花が何度かこちらの様子をうかがいながら話を振ってくれていた気がするが、何を聞かれたのか覚えていない。
 似ている。だから選ばれた。つまりは代替品だ。
 それについて僕が何か文句を言えるような立場ではない。タバコの代わりに徒花の煙を楽しんでいるというのに、自分が誰かの代わりだと言われて腹を立てるのは間違っている。
 ましてや恋人とかそういった間柄ではない。文句を言う筋合いはない。
 それでも自分の中でもやもやとした物が膨らんでいくのがわかった。くだらない独占欲にも似ている。徒花に対してそういう思いを持ってしまっていることも、認めたくなかった。
 相手は大人びて見えるが幼い女の子で、恋だの愛だのの対象にするべきでは無い。それが僕にとっての常識で、自分がそこから逸脱しているような気がして気分が悪かった。

 考えがまとまらず、いらいらしてきた。そんなときはどうするか。決まっている。タバコの煙をいっぱいに吸って、白い息を吐き出すに限る。
 幸い外に出てもおかしくない格好のままだった。足は自然と喫煙室へと向かっていた。
 やめよう。禁煙なんて知ったことか。エレベーターの中でそんなことを考えていた。
 確認するように手を伸ばした胸ポケットには、ソフトボックスの感触。

 もしもこれが切れたとしても大丈夫だ。売店をのぞいたときに確認していた。確かにここでは様々な銘柄が売られている。
 せっかくだから憧れの一本を吸ってみるのも悪くない。
 一本をじっくりと大切に。吸って吐いてを繰り返していれば、このもやもやとした感覚やいらつきも消える気がした。
 煙に混ざって立ち上って、最後は空気清浄機の中だ。
 館内の喫煙室は使う気分になれなかった。もしも徒花に見られたら、なんて言い訳をすればいいのかわからなかったからだ。
 吸うも吸わないも僕の自由なのだけど、どうしてか普通のタバコを口にしたら、彼女が悲しそうな顔をするのだろうなという予感があった。
 彼女が僕をどう思うかなんて、どうでも良いことのはずなのに。

 外に出ると、空気が生ぬるい。守衛さんに声をかけて通用口を開けてもらい喫煙室へ。
 驚いたことに、先客がいた。皺の深い、老人だ。彼は僕を見ると頭を下げてきた。

「すまん、兄ちゃん。タバコ持ってたら一本分けてくれないか? 金は払うからさ」

 同型にほれ込んだよしみでさ、と言う老人が連れていたのは徒花に良く似た少女だった。
 どこが似ているのかと聞かれれば、姿形も含めたすべてとしか言いようがない。違うのはここに居る少女の方が少し血色がよく、眉をひそめていないところだろうか。
 同型。その不自然な言葉が引っかかったが、老人にタバコ一本とライターを差し出す。

「もう一度吸ってみようと思ったんだけど、一本だけ吸うのに箱ごと買い直すのも馬鹿げてるだろ? なにより余した分がもったいない。今では手に入らないが、かといって持ち帰るわけにもいかない。古い銘柄は単純所持でさえ、かなりこっぴどく怒られるって、兄ちゃんも知ってるだろ? それで、ここを思い出したんだ。中の喫煙室は片付けられてるけれど、ここはそのままだ。そこに積まれた山の中から拝借しようと思ってきたんだけど、さすがにこいつの前でそんな姿を見せるのは情けなくて、寸前で思いとどまってなあ。他に人がいなければ諦めもついたんだろうが、ちょうど人ががきたからさ」

 ありがとよ、と慣れた手つきで火をつけると、ライターをこちらに返してくる。

「タバコをおやめになるのは大変じゃなかったですか?」
「俺もここに来るまではそう思ってたよ。兄ちゃん、あれだろ? まだここにきてから二週間かそこらだろ? 俺はあれだ、ここに来るの二回目なんだ」

 老人は僕の手元のタバコを指さした。つられて視線を動かす間に、彼はタバコを一吸い。

「やがて嫌ってくらいにわかるよ、これがひどく不味いものだってな」タバコの煙を吐き出し、首を振りながら老人は言った。
「どうせ来た時にこのタバコの山を見ただろう。これは全部ここに禁煙治療に来た人間が最後に置いて行ったものらしいんだ。みんながみんな、ためらいもなく置いていく。俺も前回来たときに置いた。もう、どれかはわからんし、捨てられて燃やされてるかもしれないがね」

 そこで彼は煙草をくわえてしばらく黙った。煙を存分に吸いこんでいるのがわかった。煙を吐きながら、灰皿の縁に二度三度灰を落とす。火のついた赤い先端が一瞬見えた。

「やっぱりダメだな。兄ちゃん。今まで惰性で吸っていたものが本当に不味いものだったって、俺はこの歳でようやく思い知ったよ」

 吸い始めたばかりのタバコを、もみ消しながら老人は言った。せっかく貰ったのに悪いね、という彼に対して気にしてないことを伝える。それよりも、聞きたいことがあった。

「そういえば、さっき同型っておっしゃってましたが」
「俺のパートナーは鈴蘭っていうんだ。もう死んだ連れ合いがいてな。その若いころに似てて、このシリーズを選んだ。何より、日本製って言うのがいいじゃないか。金髪の別嬪さんもためしに吸わせてもらったが、どうにも合わなくてな。旨いは旨いんだが。兄ちゃんの事を食堂で見かけたけど、あれだろ、同じシリーズみたいだし、よく似てるだろ」

 老人が煙を吸いたがっていることを察したのだろう。鈴蘭と言う名の少女がすっと近づくと、彼に息を吹きかける。彼はそれを堪能すると少女の頭をがしがしと撫でた。少しいやがるそぶりを見せた少女が、やんわりとその手を掴んで払った。

「おお、悪い悪い。俺が悪かった」

 老人の謝罪を受けつつ少女は一歩下がった。備え付けの姿見で、乱れてしまった髪を直している。撫でられることそのものではなく、髪型が崩れることが嫌なのだろう。
 きっと二人の間で何度か繰り返された光景だ。慣れたように髪を撫でる少女と同じように、老人もまたやってしまったとでもいうように、苦笑いを浮かべて頬をかいていた。

「これはやめられなくなるよ。大金払う価値がある。三度目も空きがあれば来たいもんだ」

 死ぬ前にな。そう明るく呟いた後で、老人は再度タバコの礼を僕に言うと出口に向かった。少女はその後ろをついて歩く。僕はなんと声をかけて良いかわからず、ただ曖昧な笑みを浮かべて、その場をあとにする彼らを見送った。
 大金。大金だって?
 審査があるという話は聞いていた。だけど老人の口から出たのは大金という言葉は初めて聞いた。
 そんなものを誰かが払ってくれたなんて話はきいたことが無いし、身に覚えもない。
 会社に言われるがままにここに来た。ペンなどの消耗品を各自に買わせたりする時期もあったうちの会社が、一社員のためにそんな金を払うはずが無い。一体、誰が金を出したのだろう。

 徒花も僕が選んだわけじゃない。今聞いたような少女の試飲もなかった。老人はシリーズと、彼女たちをまるで人間じゃないみたいな言いかたをしていた。

 ここは本当に禁煙治療の療養所なのだろうか。僕はここに居てもいいのだろうか。
 どうにも気分が落ち着かなくなって胸ポケットを触る。老人に渡したのは一本だけだ。中身はまだ十分残っている。
 ライターを手にタバコを吸うか少し悩んで、そしてやめた。


 敷地内へ戻ると、ラウンジに徒花が立って待っていた。戻ってきた僕に気がついたのか、少し小走りで近づいてくる。いつも悠然と歩いている感じがするのですこし驚いた。
 食後に別れてからそんなに時間がたっていないはずだった。それなのに、やけに顔色が悪く見える。ついさっき、似た少女を見たからなおさらだ。
 鈴蘭と呼ばれていた少女に比べて、徒花の方が白く見える。今にも透けて消えてしまいそうだ。広い空間に立ち上るたばこの煙のように。

 徒花は何事かを口にしたそうにしていたが、最初の一言が出てこないようだった。それは最近よくしゃべる彼女にとっては珍しい光景だ。ああ、でも最初は何を話せばいいのかわからず、よく会話に詰まったなと思い返す。あれからまだ三週間もたっていないはずだ。

「関口、さん」

 少し距離のあるところで立ち止まり、徒花が僕の名前を口にした。震える声で。
 彼女が僕を明という名前で呼ばなかったことが、今まであっただろうか。最初から呼び捨てにしていたのは、彼女も一緒だったことに、ようやく気がついた。

「ごめんなさい。気を悪くしたなら、謝ります。ごめんなさい。いやです、よね。あたしも、タバコの代わりならともかく、誰かの代わりっていわれたら、きっといやだから。本当に、ごめんなさい」

 そこには徒花らしい、いつもの凜としていて、自信に満ちあふれ、少し生意気そうな雰囲気は無く、今にも泣き出しそうな顔をした少女がいた。
「気味が悪い」僕は思わずそう口にした。
 少しうつむいていた徒花がびくりと顔を上げ、こちらを見た。

「君が言った言葉が今ならよくわかる。こんな関係なのに、さんづけは、気味が悪い」

 徒花が残った距離を詰めるように、こちらへ近づいてくる。ためらうような足取り。彼女が進むたびに、絨毯が少し沈むのがわかる。踏まれた場所だけ、赤い色が暗みを帯びる。

「まだどうして僕が選ばれたのかとか、君が何者なのかとか、ここがどういった場所なのか、いろいろと整理がつかない」

 僕の言葉に徒花は気まずそうに目線をそらした。隠されていることがあるのだろう。意図的に説明を省かれているのは、老人との会話でなんとなくわかった。聞けばすべて教えてもらえるのかもしれない。だけどもう、そんなことはどうでもよかった。

「それよりも君のことを知らなすぎる」

 徒花が僕の前に立った。華奢な体が少し震えている。

「ここにいられる時間もそれほど長くはないと思うけれど、良かったら教えてくれないか」

 徒花はうつむいて、僕に対して背中を向けてしまった。だからその表情を見てとることはできない。
 しばらく待つと、目のあたりをこすってしゃんと立つと、こちらに向き直った。その目は少し赤い。

「吸ったの?」と徒花は上を向くように僕の首筋に顔を寄せた。そして、すん、と小さく鼻を鳴らす。「少しにおうわ」と不安そうな様子を隠そうともしない。
「吸ってないよ」という僕の言葉が信じられないのか、徒花は不安そうな表情を変えようとしなかった。「タバコを分けたんだ。先に人がいて。本当に、それだけ」
 まるで浮気がばれそうになった男みたいだ。言い訳にも似た説明を、僕は続けた。

「本当に吸ってないのね」

 顔色が少し悪いままなのが気になるけれど、いつもの徒花がそこに居た。問いかけに首を小さく縦に振ると、彼女は少し嬉しそうに息を吹きかけてきた。

「あたし、あなたにとって美味しいかしら」

「とてもね」という僕の返事を聞いて彼女が本当にうれしそうに笑った。僕はそれを見ながら、肺の奥深くまで、彼女の煙を吸い込んだ。
 僕が煙を味わう様子を見た後で「話がしたい」と徒花が言った。二人きりがいいと、部屋に戻ることになった。
 ベッドに徒花が腰かける。僕が椅子で彼女がベッド。部屋で過ごすときの、定位置だ。
 徒花はまだ話す決心がつかないのかもしれない。彼女の事を知りたいとは思うが、無理やり聞きたいとは思わない。だから、僕からせかす気にはなれなかった。沈黙が耳に痛い。彼女が身じろぎするときの、衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。

「何から話せば――」

 徒花が喋ろうとし、そしてあわてて口を押さえて咳きこんだ。ひどく苦しそうに。咳をする口をふさいだ手の隙間から、煙が漂う。
 いつものそれとは違う。黒く色づいた煙だった。
 そのまま彼女は咳を続ける。楽になろうとして体勢を変えようとしたのだろう、口をふさいでいた手がタオルケットに触れると、赤黒く汚れた。それはすすけているのではなくて、濡れているように見えた。
 咳に合わせて断続的に吐き出される煙に、鼻をつく匂いが少しだけ混ざっていた。計算されつくしたような、普段の匂いとは違う。
 彼女が言うところの、バランス。今ならその言葉の意味がよくわかる。かぐわしさも、染み渡る感じも、何もかもが失われている。ほんの少し吸い込んだだけなのに、こちらまで咳き込んでしまいそうだった。

 徒花は苦しそうに身を丸くしていた。その背中をさすってやる。触れた僕の手に最初は驚いたようだった。すぐに慣れたのか、それとも余裕がなかったのか、身じろぎもせず、されるがままになっている。
 服の上からでもわかる。冷たい体だった。肌に触れれば、氷のような温度なのでは無いかと疑ってしまうくらいに。

 次第に咳は収まった。それと同時に彼女も落ち着きを取り戻したようだった。

「汚しちゃってごめんなさい、換えをもらってくる。すぐ戻るわ」

 体調についてとか、換えるのは僕がやるとか、そういった声をかける間もなく、徒花は僕の体をそっと押しのけた。そしてそのまま部屋を出て行ってしまった。血の気が失せてより白く見えるその手で、汚れてしまったタオルケットをしっかりと抱えて。
 残された僕は彼女が腰かけていた位置にふらふらと進んだ。ベッドの前の床にひざまずくと、最後に彼女の手が触れていた場所に鼻を近づける。

 さび臭さがそこにはあった。

 連絡を受けたのだろう職員によって、新しいタオルケットとシーツが準備された。まるで何事もなかったかのように、いつも通りの部屋は。匂いまでもがリセットされていた。
 僕はベッドに寝転びながら、戻ってこない徒花のことを思う。
 きっと大丈夫だ。明日になれば何事もなかったように不法侵入して、ベッドの端に腰掛けてるに違いない。すぐに整ったこの部屋のように。
 そう言い聞かせて、無理やり目を閉じた。


 目覚めても徒花の姿はなかった。

     *     *     *

 翌朝もカウンセリングルームへと向かう。いつものように櫻子さんが出迎えてくれた。

「寝不足ですか?」
「ええ、徒花の事を考えすぎて」

「妬けますね」と言って笑う櫻子さんは、いつもの様におっとりとした印象を僕に与える。だけどその中に、どこか陰が混じっているように感じた。声のトーンも普段より暗い。
「色々と、教えてもらえますか?」という僕の申し出に、櫻子さんは少し困ったように眉を寄せた。その表情は徒花によく似ている。
「ちょっと座っててください」と示されたソファに腰掛けて、櫻子さんが戻ってくるのを待つ。コーヒーを二つ手にして、彼女はすぐに戻ってきた。

「すみません。禁煙を目指す関口さんの前で申し訳ないのですけど、吸わせてください」

 櫻子さんは白衣のポケットからタバコを取り出した。見たことのないパッケージだ。手慣れた動きで火を付け、口をつける。サクランボの匂いが辺りに漂った。
 櫻子さんは一口だけ吸うと、すぐに火をもみ消した。いつもの僕なら珍しい銘柄なのにもったいないと思っただろうか。だけど、今はそんなことすら浮かんでこなかった。

「今、準備します」

 出されたコーヒーに手をつけず、櫻子さんが端末を操作するのを見守る。最初に壁面ディスプレイに映し出されたのは、僕の個人情報だった。顔写真に生年月日、経歴、そして喫煙履歴。どれくらいの頻度で、どれくらいの量を吸っているのか。
 自宅用の喫煙シェルターや街中の喫煙室でモニタリングされている事は知っていた。免許証には無線タグが紐付けられていて、どこでどれくらい吸っているのか記録されている。
 そのことは最初に説明される。だけどこうして、実際に数値として見たことは一度もなかった。

「全世界の現役喫煙者のデータになります。観測装置が無い場所で消費された分はわかりませんが」

 画面が切り替えられて、国籍、年齢、性別、名前、喫煙量の一覧が表示される。

「徒花たちは禁煙が広がって行く中、形を変えてでもタバコを味わいたい喫煙者のために、タバコ以外で煙を提供するための商品として産声を上げました」

 櫻子さんは画面を切り替えた。映し出されたのはパンフレット。だけど、僕に送られてきた物と違って、そこには料金表のページが存在していた。一カ月の滞在で、僕の額面としての年収なんて軽く飛んでいくようだ。

「ここの利用料はものすごく高いんです。失礼な言い方ですけど、きっと関口さんには縁がないくらい。彼女たちを一人前の商品にするために、技術費や教育費、その他諸々の費用がかさんでしまっているので。彼女たちは皆クローン技術によって産み出されたんです。生活するための環境を整えるために、時間も費用も必要です。きれいな空気、肺を清掃するための特殊な機材。必要な物は山ほどありますが、多くの場所では整備が遅れています」

「その、勘違いだったらすみません」
 僕が何を訊ねようとしているのか、櫻子さんにもわかったのだろう。パンフレットに桜シリーズという項目が掲載されていた。徒花や鈴蘭という名の少女に似た外見をしている。

「似ているでしょう。そのはずです。わたしの遺伝子を提供してできたシリーズですから。徒花はわたしなんです。商品となった彼女たちクローンは、寿命が長くありません。幼いうちから、体に悪い事をさせているから。わたしたちの持っているデータでは、働き続けた場合二十歳が最長です。煙を提供する仕事をやめたり、生涯における煙の提供期間や頻度を控えたりしていけば、普通の人と同程度に長生きできると考えています」

 画面が最初のリストに戻った。まだ世界にはこれだけの喫煙者がいるのかと、身の回りでタバコを吸う人間が減ってきている僕には少しだけ不思議に思えた。

「この中からたった一人を選ぶためにあの子は悩んでいました。真剣な目をして選んでいました。不愉快かもしれません。でもお願いです、あの子の事を嫌いにならないで」
「僕は彼女の求めているような人間じゃないですよ。きっと」

 それでも、と櫻子さんは言う。

「あなたじゃなきゃダメなんです。候補はたくさんいて、それこそオランダで徒花を気にいってくれた人もリストには載っていて、あの子もそれを知っていて、けど、それでも最後に選ばれたのは、関口さんなんです」

 櫻子さんは今にも泣きだしそうだった。

「死んでしまうあの子の願いを、極力叶えてあげたいんです」

 唇を噛んだ彼女に、僕は何と声をかければいいかわからなかった。

「幼いころからタバコを吸って、わたしたちなんかとは比べ物にならない量を吸って、もう肺の隅々まで真っ黒なんです。肺の奥から、暖かく風味豊かな煙を、漂わせるために」

 煙を我慢できない、僕たち依存者のために。禁煙一つできない僕らのために。そのために彼女達の肺は想像もできないくらい、すすけてしまっている。

「寿命なの。禁煙治療施設じゃないんです。ここは彼女たちのサナトリウムなの」

 寿命、なの。もう一度、絞り出すように櫻子さんは言った。泣きだしそうに眉間にしわを寄せて、さっきもみ消したタバコの吸い殻に視線を落としている。強く白衣の裾を握っていて、指先から血の気が失せていた。その表情が、蒼白さが、徒花の姿を思い出させた。

「ここで働いている子たちは、煙の摂取を控えさせています。今はまだ肺に残っている物をはき出しているけれども、やがては人間の吐息と変わらない物になるはずです」

「なら、徒花も。彼女も」櫻子さんは僕の言葉に、目を伏せた。

「徒花はもう手遅れなんです。オランダで、苦しんでいた事に気がついてあげられなかった。ここに来た時にはもう! どうにもならなかった! ……本当はもっとはやく連れてくるべきだったのに。異国の地であの子は誰かに気に入られたくて、煙を吸い、そして吐き出しすぎたんです。他の子たちはここでゆっくりと肺をきれいにしていけば、生きていくことができるだろうけれど、あの子はもう助かる見込みが、まったくないんです」

 沈黙が部屋に満ちた。荒唐無稽な話だ。だが、僕はそれをここにきてからずっと味わっていた。あの、言葉にできない芳しい煙。僕を夢中にさせる煙のせいで徒花は死ぬのだ。

「普通に、接するだけなら」

 今さら僕が何かできることなんて、きっとないのだろう。だからといってここで何も知らなかった事にして立ち去るには、過ごした時間と行為が濃密過ぎた。

「それだけであの子はきっと喜びます。だって、あなたは美味しそうに煙を吸う人だから」

 僕は最後に一つだけ櫻子さんに尋ねた。

「徒花は、これからどうなるんですか?」
「どうなるも何も、最後は普通の人間と同じです」

 櫻子さんは立ちあがってカーテンを開けると、窓の外を見上げた。そこには僕がプールから見上げた、使われていないという煙突があった。

「死んで、燃えて、煙をあげて、灰になるだけ」

 ただそれだけ、と言う櫻子さんの声が部屋の中に響いた。

 

 既にぬるくなっていたコーヒーを飲みほして部屋を出た。底に溜まっていた砂糖に顔をゆがめていた僕を、「おまたせ」と徒花が出迎えた。
 待たせていたのは僕の様な気もするが、彼女にしてみれば、一晩待たせていた、ということになるのだろう。

 僕は徒花に昨日の事を聞けないままでいた。彼女もまたそのことを口にしなかった。二人で示し合わせたように何もなかった事にして、二人の一日が始まった。
 いつ終わるのかわからない関係だった。いや、僕の期限は決まっている。おそらくあと一週間と少し。だけど、櫻子さんの話を聞いた今となっては、それよりも短くなる可能性もあるのだとぼんやりとした頭で思う。

 徒花は、いつまで生きていられるのだろう。もう、危ないんじゃないだろうか。
 食欲もなく、誰にも会いたくないという彼女の頼みで、二人で僕の部屋に戻る。

 僕は椅子に座る。その膝の上に徒花は腰掛けてくる。出会ったあの日の様に。
 そう座りたいのなら、椅子では肘掛けがどうしたって邪魔になる。ベッドのほうが足の自由がきいて良いだろうと、彼女を抱え上げて移動する。
 徒花は僕の首に手を回し、運びやすいように協力してくれた。
 彼女は軽かった。中に煙しか詰まっていないのではないかと思えるほどに。

「ねえ」腕の中の徒花が潤んだ瞳を向けてきた。「キスして。まだ誰にも許してない」

 その言葉に、このまま徒花を強く抱きしめ、いっそ押し倒してしまいたくなった。
 それは海の向こうにいるという、顔も知らない誰かに対する反抗心だろうか

 だけどこれは唾棄されるような衝動だと、すぐに思いとどまる

 僕と似ているというのなら、きっとそいつも最後まで手を出さなかったに違いない。いや、あるいは、そこだけが決定的に違うのかもしれない。
 もちろん、僕には実際のところはわからない。相手が手を出してこようとしたのかも、出さなかったのかも。僕はそいつではないのだから。
 だけど、この差で僕が選ばれたのだとしたらどうだ。彼女の言葉に乗っかってしまっていいのか。僕は徒花の本当の願いに気付いてやる必要がある。
 倫理観も常識も関係ない、僕と彼女の間に存在する願いを。

 どうすればいいのだろうか。そんな風に考えていたら、徒花を触れている自分の指が、ためらいがちにぴくりと動いた。
 幸いなことに僕の心の内を、彼女に気取られる事は無かった。そのままベッドに彼女と一緒に腰掛けた。

 そして「いつものがいいな」と身の丈に合った願望を口にする。口づけではない、いつもの行為を。すっかり虜になってしまった、徒花の匂いを思い切り味わいたかった。
「ひどいわ」徒花は僕に一息。「あたしが頼んでいるのに」
 違うんだよ徒花。それもあるのかもしれない。だけど違うんだ。
 僕は君より長く生きているけれども、ただただ怖かった。僕は肉を良く食べるし、自分の身だしなみにも相手を不快にさせなければいいと、必要以上に気を使わない。生まれてきてから周りに管理されて、厳しく自制もして、そうして築きあげられた君とは違う。

「ねえ、お願いよ。タバコを嫌いにならないで。あたしたちを嫌いにならないで」

 ふう、と生温かい白煙に包まれる。気のせいか、始めよりも味や香りは薄くなり、血の匂いが混ざっている気がする。

「あたしはもう、おしまいになるみたいだけど、またここに吸いに来て。あなたならきっと姉とも、妹たちとも、様々な煙を宿した彼女達とうまくやってけると思うから」

 金が無いとは言えなかった。言うべきでもなかった。お金のやりとりに対することは、持ち出すべき話題ではないように思えたから。
 だから僕は、黙って彼女の目を見て頷く。

「花の名前を持つあたしたちを、味わってね」

 徒花が俯いた。髪がはらりとおちて、顔を隠してしまう。

 君の匂いが、そのバランスが、不摂生な僕によって壊れるかもしれないのが怖い。
 本当は触れるのも怖いけれど、徒花の髪を指でそっと掬って、優しく撫でつける。

「明のそういうところが好き。触れても、最後の一線は越えずに居てくれるところが。あたしを燃え尽きる直前までタバコとして、嗜好品として愛してくれるところが大好き」

 徒花は笑った。その目は潤んでいる。

「あたしね、あなたを知ったときから直感してた」

 彼女は言い終えると顔を背けて咳を一つ。黒い息が広がった。僕は少し体勢を変えて、それも吸いこんだ。苦みがきつい煙を、肺に入れる。

「駄目よ、今のは、体に悪いわ」
「嗜好品なんて体に悪いものだろ。アルコールだって、甘いものだって、タバコだって」

 だから美味しくて。だからやめられない。僕はそれを知っている。こうして、禁煙治療に来なければならない程度には。

「明は最期まで味わってくれるのね」

 僕は頷く。徒花は「ありがと」と笑った。今にも泣きそうな笑顔だった。

「あなたがこうやって、あたしの事を愛煙してくれるなら、嗜好品として産まれてきた意味もあるってものよね」

 僕は彼女の眉間を指でほぐす。寄ってしまった皺を消す。くすぐったいのか徒花は微笑みながら息を吹きかけてくる。そこにはもう白さなんてなくて、濁った灰色になっていた。


 そんな風に、残された時間を幾日か過ごしたが、ある朝、目覚めたとき徒花の姿はなかった。
 毎朝起きれば彼女がいるということが当たり前になっていた。この前もそうだが、目覚めたときに徒花がいないというだけで、一日をどう過ごすか少し困ってしまう。

 結局、僕は一日を一人で過ごした。誰かに会うのもおっくうで、カウンセリングをさぼり、売店で飲食物を買いこんで部屋にこもっていた。
 一人でリバーシをやってみる。意識しても、引き分けにすることができなかった。飽きたら本を読んだ。ぼんやりと窓の外を眺めながら菓子パンを食べた。
 不思議なことにタバコを吸いたいとは思わなかった。
 ただ、徒花の息が吸いたかった。
 だけど、その次の日も徒花は来なかった。
 二日続けて君が来なかったから、僕は嫌でも理解するしかなかった。

 前日さぼってしまったカウンセリングのために訪れた部屋で、櫻子さんは悲しそうに笑いながら「ありがとうございました」とぼくに頭を下げてきた。

「明日、火葬します」

 最後にお会いになりますか、という櫻子さんの提案を断り、部屋だけ移してもらえないかお願いした。
 用意されたICカードで入れる新しい部屋には、彼女の匂いがかけらもなかった。


 そうか、徒花。君は死んだのか。

     *     *     *

 徒花の葬儀は櫻子さん一人で行ったと聞いた。
 好きだったという花を、柩いっぱいに詰め込んで、徒花は燃やされた。
 彼女の櫻子さんに対する最後の頼みは、古い焼却施設で燃やされる事だったという。

「どうしてそんなことを頼んだんでしょうね。わかってあげられなくて」

 僕は火葬の時間、誰もいないプールサイドで徒花の最期をみていた。
 櫻子さんは焼却炉を操作するために、屋内に居た。だから気がつかなかったのだろう。煙突から立ち上る、徒花の最期の姿を見る事は無かったから。

 だけど外にいた僕にはわかった。
 白く巨大な煙突から、立ち上る煙。まさに巨大なタバコそのものじゃないか。

 そう思うとなんだか笑えてきてしまった。タバコとして産まれ、タバコとして生きた彼女は、タバコとして死んでいきたかった。
 そのために、徒花は古い施設で燃やされることを望んだのだと、僕には理解できた。

 彼女が青空に向かって白くたなびく中、息を大きく吸い込んだ。
 潮の匂いがかすかに混ざる空気の中に、確かに君の匂いが混ざっていた。
 思いっきり息を吐き、吐ききったところでゆっくりと吸う。
 空っぽになった肺に、徒花の匂いがしみわたって行く。海風がちょっとしたアクセントで、それもまたいい。

 みんな吸えばいい。喫煙者も、非喫煙者も、嫌煙者も、禁煙成功者も。最後の最後まで嗜好品として死んでいった、彼女の匂いに酔いしれればいい。大気汚染防止協定も、健康志向もどうだってよかった。この場に居てこれを味わえないやつはどうかしている。

 見渡せば、匂いに気がついた人間は窓を開けるか、外に出てきていた。どこから漂ってくるかわからずに、部屋の中で鼻をひくひくと動かし続けている人もいるのかもしれない。
 嗜好品として死ぬために、僕なんか必要なかったんじゃないだろうか。そう思うけれど、今はただ君の最期の匂いを楽しむことにした。

 君の煙を口にするとき、決まって最初に感じるのは甘さだった。今となって、あれは少し花の匂いが混ざっていたのかもしれないと気づく。
 味わいなれた彼女の匂いを、肺いっぱいに落とし込んで、そして吐き出す。
 徒花。辺りに君の匂いが広がっている。

 ただ、ここには君の体温が無い。


 それが、残念でならない。

     *     *     *

 退所期限より早めに施設を引き払うことにした。最終日、櫻子さんとは会えなかったが直筆の手紙を渡された。
 よければ職員にならないかという誘いと、せめて気軽に遊びに来てほしいという内容だった。

 遊びに来ると行っても、施設を利用するためのお金の心配が頭をよぎった。
 だが、徒花の墓参りのついでに話し相手になってくれればいい、という最後の一文に、来ないわけにはいけないなと思う。

「施設での生活はどうでしたか。徒花さんは、あなたが来てから楽しそうにしてましたよ」

 駅まで送ってくれるという職員さんが、そう声をかけてきた。
 職員の人たちや嗜好品の少女たちの間でも、嬉しそうに僕の部屋に向かう徒花の姿が話に上っていたと僕は今になって知った。

 彼女の最期は安らかな顔だったという。苦しむことなく、櫻子さんに看取られたらしい。僕が呼ばれなかったのは徒花の意向によるもので、眠った後もけして見せないで欲しいというのが遺言だったそうだ。
 櫻子さんが気を利かせて、最後に一目見るか聞いてくれたのだろうけど、あの時断ってよかったと思う。徒花の意に沿った行動をとれたのだ。僕を選んだことに間違いがなかったと、きっと思ってくれるに違いない。

 車を用意してくるという職員さんを待つ間、僕は喫煙室にいることにした。
 療養所前の喫煙室に人の姿はなく、部屋の隅には山積みのタバコが残っていた。

 胸ポケットからタバコをとりだす。あけたての時に感じられる、雀の涙ほどの風味。それさえもなくなって、葉っぱもここで過ごした期間ですっかりしけてしまっていた。
 火が上手くつかないのはきっとそのせいだ。震える手でどうにか火をつけ、思い切り煙を吸った。肺に落とし、そして息をつく。
 彼女のように口から出した白い煙だ。だけどそこに美味さを感じる要素は欠片もなかった。匂いはひどく鼻につくし、うまみなんて物もない。温度も物足りなかった。

 一カ月にも満たない生活。そして、まだ三日。徒花の口から煙を吸わなくなってたった三日じゃないか。それなのに僕は彼女の事を、もう求めているのだろうか。
 心を落ち着かせるために、あまりにも不味い煙を、もう一度肺に落とす。

 ――タバコを吸うとき、あたしを思い出してね。

 忘れられるわけがないだろう。
 他の人間がそうしていったように、部屋の片隅にあるタバコの塔の高さを上げた。これで僕も立派な禁煙成功者の仲間入りだ。
 だけど他の成功者と違って、僕は挫折するだろう。吸いたいわけじゃないのに、役所で買い直して、毎日のようにタバコに手を伸ばすだろう。
 それは間近に迫った喫煙可能期間を過ぎても止まることはない。

 櫻子さんの誘いをありがたく受けて、ここの職員になる。不味い煙を確かめながら、そう決めた。
 そしてこれからもタバコを吸うのだ。僕にとって吸いなれた味気ないゼブラを。
 あるいは君の姉妹の煙を。何度も何度も、それこそ飽きることなく口にするだろう。

 徒花の事を、君の美味さを、人肌の煙を忘れないために。
 僕がこれからタバコを吸う理由は、ただそれだけだ。

 タバコをもみ消すと誰に向けるでもなく、天井に向かって煙と言葉を放つ。自分でも驚くほどその声は震えていた。

「ああ、本当に不味かったな」

 彼女が死んだ時に流せなかったものが、いま、やっと、頬を濡らした。

肺煙少女サナトリウム 前編

     *     *     *

 海沿いにあるひなびた駅。そこから車で三十分ほどのところに療養所はあった。
 守衛が立ち、門が閉ざされた入り口は、僕が勝手に想像していた施設よりも物々しい。

 確認手続きが終わるまでの間、少しだけ待たされることになった。
 幸いなことに門の脇にはプレハブの喫煙室が用意されていた。僕は守衛室の中に向けて「吸ってきます」と一声かけ、喫煙室に向かった。
 扉を開けて入ると、エアカーテンが強く風を起こす。消臭剤の匂いが充満するその場所に人影はなかった。
 都心ですら喫煙者に出くわすのはまれだ。こんな場所であればなおさらだ。

 胸ポケットに入れていたソフトボックスを取り出すと、タバコを一本抜いて火をつけた。
 これが人生における最後の一服、というわけではない。この喫煙室には入所後も来ることができると聞いていた。
 でも、喫煙所があるのは門の外だ。敷地外の扱いになる。入退所のたびにセキュリティチェックを受ける必要があると聞いていた。それは少し考えただけで面倒くさそうだった。
 それならば今、気軽に吸えるうちに口にしておくべきだ。

 どうせこれから、日本でタバコは吸えなくなるのだ。
 こうして吸えるうちに楽しむべきだ。

 視線を喫煙室の出入り口にやれば姿見が置かれている。
 身だしなみを整えるためのものではない。このご時世にまだタバコを吸っている自分を客観視させるためのものだ。

 映り込む自分の姿を見る。社会人になって数年がたつのに、学生っぽさが残っているのが未だに悩みの種だった。若いと言われればいやな気はしないが、そこには幼さが見えるという意味も含まれている気がしてしまう。
 緊張が顔に出ているのだろうか、眉が寄ってしわが浮かんでいた。これはいけない。ライターとタバコの箱を持ったままの左手で眉間をほぐす。リラックスする為に吸っているのだ。こんな表情をしていては、気持ちが前向きにならない。

 手の中のソフトボックスは飾り気のない真っ白な箱だ。そこに健康被害を注意する長ったらしい文章と、各国に足並みをそろえて日本も大気汚染防止協定に参加する旨、そして半年後に迫った禁煙法成立による喫煙可能期限が印刷されている。
 それは可読性と情報量のバランスをとったせいで、遠くから見れば白黒のストライプに見えた。
 年々喫煙人口が減っていく中であえてタバコを吸う人間が、これをゼブラと呼ぶのもわかる気がする。
 いくら格好良く呼んだところで、喫煙者であるという事実が消えるわけではないというのに。

 喫煙行為が免許制になってからどれくらいの時が経ったのか、僕は覚えていない。ちゃんと勉強はした。だけど免許を取得した今となっては、その成立年月を忘れても吸うことはできる。だから、忘れてしまった。
 僕が吸える年齢になったときにはすでにコンビニでの販売が禁止され、街中の自動販売機は撤去されていた。タバコは役所に行って、喫煙免許を提示しないと手に入らなくなっていた。

 免許を取得するための登録に、随分と時間がかかったことを今でも覚えている。
 依存性の高さや体への悪影響の講義から始まって、嫌煙者のコメント集の朗読なんてことも行われた。途中で何度も聞かれるのだ。「それでも吸いますか」と。
 多くの人間はそこで面倒になってやめるのだと聞いた。喫煙免許の発行が有償であることと、三年ごとの更新が義務づけられていることもタバコ離れを引き起こすには十分だった。
 それでも僕はタバコを吸ってみたかった。子供の頃にテレビで見た昔の映画のせいだ。路地裏でビルに寄りかかって、主人公が美味しそうに口にしていたから。
 再放送だったそれには、番組冒頭で注意書きが表示された。本作品には喫煙シーンが登場しますが、作成当時の年代を考慮し撮影当時の表現のまま放送します。
 子供心に、馬鹿げているなと思った。

 大人になって口にしたそれは、けして美味しい物ではなかった。それでも煙を楽しむことは僕の日常に組み込まれた。
 認可された一月あたりの上限箱数を超えて買い増すことはしない。
 外で吸いたくなったとしても喫煙所以外では吸わないし、衣服に消臭剤を振りまき、タブレットを噛んで、少しでも匂いが人に伝わらないようにした。

 そんな優良喫煙者だったはずの僕に、治療の案内が届いたのは先月の初めだ。
 梅雨が終わろうとして夏が近づいていたころ、会社の総務部から禁煙治療の呼び出しを受けた。
 大気汚染防止協定による禁止品目一覧に、タバコがねじ込まれた影響だった。

 嫌煙団体を恨まずにはいられない。こうやって狭く小さな喫煙室に追いやるだけで我慢してくれても良さそうなものだが、結局は喫煙行為そのものを禁止する流れになった。
 タバコというより、喫煙者が嫌いだったのだろう。同団体が火力発電やゴミ焼却施設、キャンプファイヤー護摩業、火葬場なんてものをリストアップしたという話は聞かなかった。
 大気汚染という観点からみれば、喫煙が与える影響なんて僅かなものだろうに。

 そんなことを考えながら鞄をあさった。関口明と自分の名前が印字された紙を封筒から取り出す。
 会社の総務部から渡された案内状だ。当日必携と念を押されていた。

 それにしてもこの文面はひどい。何度見てもそう思ってしまう。

 ――清らかな空気の中で、タバコの誘惑を断ち切る生活を――

 まるで治療が必要な病人のような扱いだ。
 いや、わかってる。こんな状況になってまで煙草をやめられないなんて、どうかしている人間ばかりだ。
 だからといって、わざわざ施設に足を運んでまで禁煙治療を行うのは面倒だった。
 とりあえず吸うのをやめればいいのだろうか。案内に記載されていた電話番号に連絡してみたが、とにかく一度来てくれということになった。

 勤務先にも先に話があったらしく、僕には特別休暇が与えられた。
 喫煙者に対する風当たりが強いというのに、禁煙治療のために個人的な休暇が与えられるとなったらより肩身が狭くなりそうだったが、社内的には出張として処理された。

 つまり僕はどういうわけか、会社の出張という名目で治療に来ているのだ。

 きっと会社としてもこのご時世に喫煙者を抱え込んでいたくないのだろう。もちろん禁煙に成功しなければならないという思いは、僕にだってある。
 今でさえ無許可の喫煙は犯罪なのだ。これから先、締め付けがよりきつくなるだろうことは、考えればすぐにわかった。
 喫煙そのものが罪。そう遠くないうちにそんな時代が来る。

 アルコールや甘いお菓子、こってりとした揚げ物なんかのほうが、今の腑抜けのようなタバコと比べればよっぽど体に悪いはずだ。
 吸うのは喫煙施設の中でだけ。自宅には基準を満たした喫煙ボックスを設置する。あくまでも人に迷惑をかけない範囲で嗜みたいだけなのだけど、社会にそれを許してもらえなかった。
 どうしたものかと思いながら、封筒をしまい、煙を口に含んだ。天井に向かって息を吐く。白く染まった空気は、すぐに埋め込み式の空気清浄機へ飲み込まれていく。

 それが目に入ったのは、天井から視線を戻した時だ。姿見の中にそびえるのは白黒の塔。
 不要になったタバコを納める回収ボックス。そこに崩れそうなぐらいタバコの箱が山積みになっていた。
 どれも封は開いていたけれど、その中身はまだ残っているように見える。

 この山が今から行く場所を物語っているようだ。
 一箱二千円近くもする贅沢品になったそれを、まだ吸えるというのに誰かが置いていったのだ。

 それも一人や二人ではない。
 両手はおろか両足の指を足しても、ここを訪れた喫煙挫折者の数には足りない。足りるはずがない。一目見てそれがわかった。
 一体どんな治療が行われたのか。考えるだけで憂鬱な気分になる。

 海外ではまだ喫煙が盛んな場所もある。アメリカやオランダ辺りに移住を考えるべきだっただろうか。だが残念なことに喫煙可能な楽園を目指すだけの語学力がなかった。
 こんな味気ないタバコなんていつでもやめられる。吸えなくなっても困ることはない。そう思ったまま、ずるずるとここまできた。

 煙を吐きつつ、箱に目を落とす。
 半年。このまま行けば、半年後には犯罪者だ。禁煙法の施行が翌日になっても、明日になったらやめるとうそぶきながら吸い続けている自分の姿が容易に想像できた。

 だから治療が嫌なわけではない。必要なことだ。ただ、こんな療養所に来ることになったことに、少しだけ話が大きくなりすぎている気がするだけで。
 自分の未来予想図から、我に返ると灰が長くなっていた。今にも落ちそうになっていたそれを、灰皿に落とす。そのまま火をもみ消した。

 せっかくの一服なのに、味わうべきものが欠けている残念でならなかった。昔のタバコには銘柄ごとの味わいと言うものがあったと聞くが、あいにく僕はそれを知らない。
 一服は終わりだ。もう、入所のための確認も終わっているだろう。

 息を一つ吐くと姿見で自分の格好を確認する。置き忘れた荷物もない。
 喫煙室の扉を、エアカーテンの風にふかれながら抜ける。


 外に出れば相も変わらず晴れていた。
 遠く、波の音が聞こえる。
 潮の匂いが鼻に抜けた。

     *     *     *

 最低限の手続きを終えて通された療養所のラウンジ。そこにほかの利用者はいなかった。広々としているのに、僕と向かいの職員の人くらいしか人の姿がない。
 居心地の悪さと反比例するように、随分と座り心地の良いソファだった。
 このままゆったりと背もたれに体を預けてリラックスしたくなるが、そうもいかない。入館証を作るために写真を撮ったり虹彩を登録したりしたが、手続きは続いている。

「お読みになって、問題がなければサインを」

 そう手渡されたタブレット端末には入所同意書が表示されている。内容に軽く目を通して、署名をする。
 簡単にまとめれば、治療は自己責任、思うような成果が出なくても文句を言うな、ここで見聞きしたことに関しては基本的に黙っているように、という事だった。

 送迎してくれた職員の姿はすでにない。代わりに僕の前には白衣姿の女性が座っていた。
 医者だとしたら、ずいぶんと若く見える。かかりつけ医院の老先生と比較したからだろうか。それとも明るめの茶髪や、さりげなく光る赤いピアスが与える印象のせいか。

「関口さん、ご署名ありがとうございます。これも形式的なものですから、この署名によって何か問題が生じることは基本的に無いと思います」

 女性はタブレットへの署名を確認しながらそういった。

「入館証ができるまで、もう少しお待ちください――そういえば、挨拶がおくれました。関口さんの担当をさせていただく佐藤櫻子と申します。できれば名前をよんでいただけると助かります」

 同姓が多いもので、と笑う彼女に頷きを返す。

「わかりました。よろしくお願いします、櫻子さん」
「ありがとうございます。では、入館証が届くまでこちらでの生活について簡単な説明を」

 櫻子さんは身を乗り出して端末を操作する。同意書が閉じられて代わりに表示されたのは施設の案内だった。利用する上での注意事項や館内の見取り図といった項目が目に入る。

「当施設は宿泊のためのホテル部分やホスピタリティ関連の施設、それに研究所で成り立っています。基本的な移動は生体認証とICカードの組み合わせで大丈夫なんですけど、ご宿泊いただくお部屋はアナログキーなんです」
「珍しいですね」

 最近のホテルはどこも生体認証やカードキーばかりだ。
 幼い頃に家族旅行で旅館に泊まったときはアナログキーだったような気がするが、一人で旅行するようになってからは出くわしたことがない。

 賃貸住宅もアナログキーと見せかけて電子キーでタッチするだけのところも多い。エントランスだけじゃ無くて、占有スペースの鍵もだ。
 昔ながらの鍵はゴミ捨て場などの扉を開けるときにしか使わない。
 ディンプルキーですらない、簡単に複製ができそうな形を思い浮かべた。始めて一人暮らしをした、喫煙可の古めかしいアパートはそういえばそんなアナログキーだったはずだ。
 住んで半年も経たないうちに、禁煙住宅に建て替える連絡が来た。近くに住んでいた大家のじいさんが申し訳なさそうに謝罪に来て、敷礼金の返却に加えて支払った家賃の一部返却、さらには引っ越し費用も負担してもらった覚えている。

「電子錠にカードをかざすのではなく、自分の手で鍵をかけるという行為への安心感というのも良いと思うんですけどね。うちの施設はご年配の方の利用者も多いのですが、そういった方に懐かしんでいただけるので居室周りにはアナログキーを使ってるんです」

 泥棒も出ないから良いのだろう。わざわざ他人の部屋に侵入するような用事も発生しない。セキュリティのレベルを高くしすぎても運用が面倒そうだ。
 治療期間が終われば僕たちのような人間は施設を出て行く。人が出入りするたびに情報を入れ替えるより、アナログキーを管理する方が確かに楽だろう。

 案内に目を通しながら、気になった場所があれば質問する。時には櫻子さんがこちらの様子を察して先に説明してくれることもあった。
 食堂は朝昼晩の決まった時間に営業をしていて、基本的にはバイキング形式らしい。コース料理も予約すれば可能。
 素材にこだわっていて利用者に好評だという案内は、こちらに対するセールストークなのかそれとも本心から来るものなのか判断がつかない。昼食を電車内で済ませてきてしまったため、確認するのは夕方までお預けだ。
 コンビニに似た品揃えの売店もある。だけど営業時間は、朝の九時から夕方の五時まで。
 飲料をはじめ、ホットスナックやパン、菓子などを扱う自動販売機は常に稼働しているらしい。
 ラウンジにある喫茶室とバーも朝方まで営業しているという。もともと夜型の生活をしていた利用者や、仕事で夜遅くまで起きている職員への配慮らしい。

「タバコも販売していますよ。興味があれば購入されてみてはどうでしょうか」という言葉には驚いた。何でも禁煙のための更生施設だというのに、タバコが無いなら来ない、なんて人がいるらしい。
 さらに驚かされたのはゼブラだけでなく、昔の銘柄タバコも扱いがあるということについてだった。今では生産が中止されていたと思っていたのに、どうして。

「表向きには禁煙のための施設ということになってます。それと同時に、公表はしていないのですが、文化としての喫煙行為の保護、それに準ずるタバコの研究開発保全を目的として認可を受けてるんです、ここは。半年後を過ぎてもこれは特例で継続される予定なんですよ」

 僕にとっては衝撃的な話だった。楽園は海の向こうではなく、この国にあったのだ。
 無理して禁煙しなくてもタバコが吸える。その事実に思わず、腰を浮かして前のめりになりそうになる。そんな僕を見て、櫻子さんが微笑んだ。

「ただ、どなたでも利用できるわけではないんです。厳しい審査もありますし」

 わざわざ審査の厳しさを匂わされたということは、僕には資格がないのだろう。それが残念で成らない。
 ああ、とうめくような声が漏れてしまった。
 櫻子さんはそれに気がついたのか、困ったような笑みを浮かべていた。
 
 審査が必要だというのであれば、先の利用は諦めるしかない。駄目なものは駄目と見切りをつけなければいけない。
 だけど今で考えれば話は別だ。どういうわけか自分はここに来ることができている。そして売店の使用許可も出ている。
 過去の銘柄が本当に吸えるのであれば、ためしに吸ってみようか。そんな考えが頭に浮かんでくる。
 いやしかし、世の中には知らないほうが幸せな事も多い。一度引き上げた生活水準を下げるのが難しいように、よい煙草を知ってしまったら禁煙なんて不可能になるのではないだろうか。

 そうやって悩む僕を気にしつつも櫻子さんの説明は進んだ。施設内の設備についてだ。図書室、遊戯室、ランドリー、スポーツジム、屋外プールなんてものにはじまりアートサロンやプラネタリウム――そして各所に設けられた喫煙室
 広大な敷地の中に、これでもかと施設が詰め込まれていた。ビジネスでもレジャーでも滞在のための対策は十分だ。それどころか何不自由なく暮らすこともできるだろう。
 喫煙室に至っては外のプレハブ小屋とは違って、ゆったりと吸える環境になっているらしい。椅子にテーブル、軽食を運んでもらうこともできる。
 食事時にたばこを吸えるだなんて。まるでフィクションか、あるいは過去の世界みたいだ。

「僕の住んでいるところよりも、便利そうです」
「基本的には何一つ不自由のない生活を送っていただけると思いますよ。すぐに手に入らないのは衣服くらいでしょうか。これは通販での購入をお願いしています。翌日には届きますよ」

 そうやって話をしていると別の職員の女性が、僕の前にコーヒーを運んできた。白い湯気が渦を巻くようにのぼっていく。一緒に入館証や鍵も持ってきたようで、櫻子さんを経由して渡される。
 入館証としてのICカード、それとやけに細長いキーホルダーの先についた宿泊部屋用のアナログキー。二つを示しながら櫻子さんが説明をしてくれる。

「自室への入退室にはこちらをお使いください。ほかの場所はこのICカードを読み取らせて、カメラに目を映してもらえれば入ることができます。入れない場所もありますが、基本的には関係者以外立ち入り禁止と書かれています。仮に間違って虹彩を示した場合も短いブザーが鳴って、読み取り機の赤いランプがつくだけなのでご安心ください」

「わかりました」と返事をしながら差し出されたICカードを手に取る。プリントされた名前の隣には虹彩を登録する際に一緒にとられた顔写真が印刷されていた。どうもこの手の証明写真は人相が悪くなりがちだ。この入館証の僕も、穏やかとは言えない表情を浮かべていた。緊張が顔に出ているのかもしれない。

「滞在スケジュールですが、関口さんはひとまず一ヶ月とさせていただいております。その中で喫煙に関する講習を一度受けてもらうことになりますのでご了承ください」
「一度でいいんですか?」

 朝から晩までみっちり治療すると思っていたからその言葉に少し拍子抜けして、思わず聞き返してしまった。

「ええ。うちは生活の中で禁煙ができるようになるんです。だから不必要な講習なんて本当は必要ないと思うんですけどね。一応実施しておかないと、禁煙施設としての補助金も受けている面でいろいろと問題があるので」

 不思議な話だ。明確な治療行為もなく、自由な生活を送るように言われているのに、どうやって禁煙を習慣づける事ができるのか。どうにも胡散臭さを感じてしまう。それが顔に出ていたのか、櫻子さんがこんな事を訊いてきた。

「関口さんは禁煙に必要なものと言われて、何を想像されますか?」

 喫煙に必要なものは何か。そう問われて思いついたのは精神論だった。

「根気とか、我慢強さでしょうか」

 昔に比べて喫煙によるニコチンの影響は少ない。ニコチンパッチによる禁煙成功者の数は年々減るばかりだ。電子煙草も大分普及してきて、出回り始めた頃のものよりも健康志向が強い。
 成分による依存とは別のところにタバコをやめられない原因がある。
 吸えない理由があったって、つい慣れ親しんだものを求めてしまうのが人間だ。吸わない自分を長く維持することや、誘惑に負けない強さが必要なように思えた。
 だけど櫻子さんから返ってきた答えは僕の想像とは違っていた。

「禁煙には、パートナーが必要なんです」

 その言葉から頭に浮かぶのは家族とか恋人とかそういった関係性だったが、僕はここに一人で来ていたし、両親は地方で暮らしている。恋人は残念ながら長いこといない。

「その、一人で来ているのですけれど」
「大抵の方は一人でいらっしゃいますからご安心ください。ときおりご夫婦でお見えになることもありますが、そういった場合でも各々にパートナーを用意させていただいてます」

 専門の人員がいるんです。櫻子さんはそう続けると、微笑んだ。

「よくわからないのですが、それは、櫻子さんがそうなのでしょうか」
「いえ、わたしでは残念ながら禁煙させることができないので。というか喫煙推奨派なんですよ。わたしも吸いますしね。ここの職員なのであまり禁煙にこだわる必要もないですし。このご時世ですから禁煙を望むかたへのサポートはさせていただきますけど」

 何かに気がついたように櫻子さんが姿勢を変えた。言葉を区切り、視線を僕の後方へと向ける。

「ちょうど良かった、紹介しますね」

 櫻子さんの声と視線につられるように体ごとひねって後ろを向いた。床に敷かれた赤い絨毯の吸音性も手伝ったのだろう、足音もなく長い黒髪の少女が歩いてくる。
 相手を少女だと判断したのは、彼女が制服の様な服を着ていて、高校生のように思えたからだ。ひどく、場違いな存在ではないだろうか。

「彼女が関口さんのパートナーになります」

 僕の目の前に立った場違いな彼女は、口角をあげながらも眉をひそめていた。
 口元は笑みを浮かべて愛想を良くしようとしているように思える。しかし目のあたりを見れば困ってもいるように見えた。なんとも複雑な表情だった。

 ただ、視線に込められたものだけはわかる。値踏みするようなまなざしだ。
 居心地が悪い。就職活動の時の面接で、ああこれは落ちたなと感じた記憶がよみがえる。僕自身ではわからない何かを見られているような気分だった。そのときの合否は覚えていない。きっと落ちたからだ。

「思っていたより、若いのね」

 一瞬、それが彼女の声だと認識できなかった。
 頭の中で勝手に見た目に引きずられて、女の子らしい声を想像していたのだろう。実際の彼女の声はどこか控えめで、ハスキーとまではいかないが独特な声質だった。
 それにしても、若いはない。気にしていることを指摘されて、思わず苦笑いを浮かべる。
 僕の様子に気がついたのだろう、彼女は少し慌てたように続けた。

「気にしていたならごめんなさい。悪気があったわけじゃないの」
「いえ、大丈夫です、えっと」
「徒花ってよんで」
「あだ、ばな?」

 変わった名前の彼女は僕の声に対して、少し困ったように微笑んだ。

「ええ、外国で生まれたから苗字は無いの。それと、絶対に呼び捨てにして。さんづけなんて他人行儀で好きじゃないから」
「僕は――」
「明でしょ? 関口、明」

 あなたの事なら知っていたわ。徒花はそういうとおもむろに僕の膝の上に座ってきた。突然のことにあたふたと戸惑う僕のことなんて気にしないようで、しなだれかかるように腕を肩から背中へと回してくる。
 顔と顔が近い。彼女の髪が僕の鼻先をかすめた。いい匂いがする。甘いお菓子みたいな。

 どうして相手がこんなことをするのかわからなかった。だからといって乱暴に振り払うわけにもいかない。隣には空席があるのに、どうしてこんなことに。

「関口さんにはこちらに滞在する間、彼女と生活を共にしてもらいます」

 少女の行動に慌てている僕の事を気にすることなく、櫻子さんは念を押すように言った。

「なにせ二人はパートナーですから」


「その、パートナー、ですか。その仕組みについてもうすこし詳しい話を」
 僕は徒花をよけるように顔を覗かせて、櫻子さんに説明を求める声をかける。
 仕事上のパートナーとか、そういうものならまだわかる。だけど、禁煙のパートナーとはなんだ。それはこういう行為を含むものなのだろうかと、膝の上の少女の事を思う。

「パートナーはパートナーですよ。お二人が一緒に居れば、禁煙成功間違いなしです」

 櫻子さんはそう言うと立ち上がり、部屋を出ていこうとする。まだ聞きたいことがあるのだけど、膝の上の少女を乱暴にどけて立ち上がるわけにもいかない。

「そうそう、教えなければいけないことがあるんです」

 櫻子さんは振り返りこちらに向かって笑いかけてきた。

「タバコって実は、体に悪いんです。肺が真っ黒になってしまうんですよ」
「ええと、それはよく知ってます」
「よかった。では、弊施設で行う禁煙講習は以上となります」

 言葉が出なかった。戸惑いが強くて何を言えばいいのかわからなかったからだ。喫煙免許取得時の禁煙啓発ビデオのほうがよっぽどタバコの害を強調している。こんな場所で本当に禁煙できるのだろうか。なにより、膝の上のこの子はどうしたらいいんだろうか。

「以上で講義は終了になります。あとは一ヶ月、自由にお過ごしください」

 毎日のカウンセリングは受けるようにと告げ、櫻子さんは手を小さく振って去って行った。職員用の部屋があるという区画へ歩いていく彼女は、こちらには目もくれない。
 そうして僕と、膝の上の徒花だけがその場に残された。
 僕の思考が停止していたのは、たぶん、ほんのわずかな時間だった。立ち上がるためにどいてくれと頼んでみたのだが、予想外に座り心地がよかった、と少女は降りる気配を見せない。長いまつげが僕の眼前でぱちぱちと上下運動している。

「一緒に生活するって、どう言うことなんだ? 君は納得しているの?」
「ベッドの中までは付き合わないわよ。日中一緒に居るだけ」

 徒花が僕の瞳を覗きこんでくる。今まで付き合った恋人がいなかったわけではないが、こんなにまじまじと見つめあったことは無いかも知れない。随分と大きな黒目だった。可愛いのだけれど、なにか有無を言わせない迫力があった。会社のお局様が新入社員の男性に向けるまなざしにもどこか似ている。さっきも感じた、値踏みだ。
 何かを見極めようとしているのだろうか。だとしたら、一体何を。

「納得しているに決まってるわ。だってあなた、こんな状況でも襲ってこない。指も触れないように浮かせちゃって。今まで見てきた男たちに比べたらかなりまともだもの」
「襲ってって」
「据え膳みたいなこの状況で手を出さない。それにタバコが好きなのでしょ?」

 僕は頷こうとしたのだが、頭を下げれば彼女に額をぶつけてしまいそうで、ほんの少しだけ動くしかできなかった。歯医者で口を開けたまま返事をしなければならない状態に似ているなと感じた。痛かったら左手を挙げればいいのだけど、どいてほしいときはどうすればいいのだろうか。曖昧な返事しかできないのが少しもどかしい。
 現実逃避から我に返っても、相変わらず彼女の顔は近くにあった。息がかかるほどの距離だ。じっと見つめているのも悪いと思って視線を知らすのだけど、どうやっても彼女が視界に入ってくる。黒く長い髪。透明感と言う表現が似合いそうな白い肌。頬は少し赤みを帯びている。唇にはグロスが塗られていてつややかだ。
 そうやって口元を見ていると気がつくことがあった。彼女の口の中に、何かもやのようなものが漂っていて、喋るとそれが少し口からもれだすのだ。

「なら、あたしはあなたの事を気に入るだろうし、あなたもあたしのことも気に入ってくれるはず」

 それだけで十分だわと続け、徒花は僕の鼻先にふぅと息を吹きかけてきた。やはり見間違いではなかった。冬に吐き出す吐息のように、それは白く染まっていた。
 どうして。なんて疑問をさしはさむ余地は無かった。それを考えるよりも前に、鼻の奥に嗅いだ事のない匂いが広がって、思わず呆然とする。それがタバコと同じようなものだと、考えるよりも前にまず体が反応した。
 彼女から与えられた煙を口の中にため、そして肺に落としこむ。
 最初に感じたのはほのかに感じる、花にも似た甘さだった。だけど、そんなに単純じゃない。ハーブの清涼感がつづき、ラム酒の匂いも感じ取れた。旬の果実の瑞々しさ。それに香ばしいナッツのようなものも。
 かぎ分けるのは得意ではない。わかったのは色々な匂いが、絶妙なバランスで混ざり合っているということだけだ。不思議な事に、人の口臭めいた生臭さは欠片も感じなかった。

 ああ、それにしても。風味のある人肌の煙がこんなにもうまいだなんて。

 それは今までどこで吸ったタバコよりも美味く感じられた。肺に入れた煙をゆっくり吐き出すと、しばらくのあいだ身動きすることもなく呆けていた。
 膝の上の彼女がこんなにも間近で見つめてきているのに、その視線も忘れてしまって。


 我に返ったとき、徒花はいつの間にか膝から降りて隣に腰かけていた。僕の意識がはっきりしたのを見てとったのだろう、先に立ち上がると僕に向けて手を差し出してきた。それをためらいがちに掴むと立ち上がる。柔らかく小さい手だ。

「全部は無理だけれど、中くらいは案内してあげるわ。行きましょう?」

 立ち上がっても手はつなぎ直されて放してもらえない。乱暴に振りほどくわけにもいかず、少し先を歩く徒花の後ろをついて施設内を見て回る。あくまでも使うであろう場所の確認程度の物だ。それでも結構な距離があった。少し疲れを感じる頃にラウンジに戻ってきた。

「このラウンジには喫茶室とかがあるわ。声をかければどこにでも注文を運んでくれる」

 スタート地点に戻ってきて、僕の手は解放された。少し汗ばんでいて、空気に触れたところが冷たく感じる。彼女は不快に思わなかっただろうか。少し申し訳ない気持ちになる。
 徒花に視線を見るが、彼女に変わった様子はない。なんにせよ、一度話をする必要がある。
「よければ、ちょっと話でも」と僕は喫茶室を指さした。

 聞きたいことは山ほどあった。他の利用者がどうやって過ごしているのか、禁煙することができるのか、パートナーとは何か。彼女が何を知っていて、どこまで教えてくれるのかはわからなかったが、聞くだけ聞いてみるのはいいだろう。

「なら、軽い食事をとってもいい? お昼をたべそこねたの。昼過ぎに貴方が来るって聞いたから、最高の状態で待ってたのよ」

 僕の返事をまたずに、徒花は歩き始めた。

「ここも食堂も空いている席なら自由に座っていいの。おすすめは庭が見えるあたり」

 そういう徒花の案内で、窓際の席を選んだ。窓の外には南国を感じさせる、色鮮やかな花が咲き乱れている。手入れされた庭を散策できる遊歩道が続いていて、遠くには海が見えた。
 既に何人かの客がいて、その誰もが隣に少女を連れて楽しそうにしていた。それなのに、不思議なほど静かだった。ときおり食器がたてる甲高い音が、やけに響く。
 けして彼らの間に会話が無いわけではない、ときおり笑い声が聞こえてくる。僕はどうだ。向かいに座った徒花と何を話せばいいのかわからず、さっきから沈黙が続いていた。耐えきれずにメニューを見ながら何かおすすめがあるか聞いてみたのだが、「どれもおすすめよ」と返されて会話はそれ以上続かなかった。
 のぞき込んでいたメニューから顔を上げる。目の前に座った徒花はもう何を頼むか決めているようで、僕のほうをじっと見ていた。

「そういえば、学校は?」

 僕は馬鹿だろうか、それよりも前に訊くことなんて山ほどあるじゃないか。たとえば、そう、年齢とか。もっと踏み込んでパートナーの事についてとか。いや、それよりも何よりも口から出る煙について訊ねるべきだろう。

「ああ、これ、可愛くない? いかにもありそうな、制服っぽい見た目でしょ? だけど学校にはいってないの。事情があって。でも勉強は人並みにできると思うわ」

 そういうと彼女は僕に理解できない言語で何事かをつぶやいた。

「わたしはタバコが大好きですって。オランダ語よ」
「すごいな」嘘か本当かわからないが思わず感心した僕をよそに、彼女は近くを歩いていた店員を呼びとめ、「いつもの」と手早く注文していた。
 店員の視線を受け、慌てて僕も珈琲と本日のケーキセットを頼む。コーヒーだけでもよかったのだけど、なんとなくセットがあると少し割引がきくことが多いのでそっちを頼んでしまう。だけどここのメニューには料金が書いていなかった。一体いくらになるのだろうかと気にしていたら「失礼します」と虹彩をスキャンされた。

「そういえば基本的にここでの飲食にお金はかからないからね。そりゃ、毎日フルコースとか、限度も知らずにたっかいお酒を飲み続けるとか、そういったのは別料金。案内にもあったと思うけど、指定されたところでの食事は基本費用に含まれているから。いまのは誰がどこを利用したか管理しているだけ」

 疑問が顔に出ていたのだろうか、徒花が説明をしてくれた。先回りされてるとでも言えばいいのだろうか、さっきからこういうことが多い。

「櫻子からきかなかった?」
「言ってたのかもしれないけど、聞き逃したのかもしれない」
「呆れた」といって徒花は残念なものでも見るような視線を僕に向ける。
「しょうがないだろ、僕もまだ困惑してるんだ。突然、会社から指示されて、ここに来ることになったんだよ」
「ああ、ごめんなさい。きっとあなたの勤め先もよくわかってないと思う。だけどねそれはきっと、全部あたしのせい」

「君の? どうして?」という問いかけに、徒花は「秘密」と言って微笑む。

 タイミングを計ったようにコーヒーが届いた。一緒に運ばれてきた今日のケーキはクリームが添えられたフルーツタルトのようだった。イチゴを中心にしてふんだんに果物がのったそれは、都内で食べればセットでも千円を超えそうだった。軽食を食べたいと言っていた彼女の前にはミネラルウォーターと、花びらを散らしたサラダが運ばれてくる。それだけで腹が膨れるのだろうかと心配になる。
「肉とか食べないの?」そう訊ねたが「食べないわ」とまた会話が途絶えてしまった。だけど何か聞くことがないか考える僕と同じように、徒花も沈黙をよしとしなかったようだ。サラダをつついていたフォークの動きを止めて、彼女が僕をみる。

「あたしね、肉や魚は食べないことにしているの。タンパク質は豆とかで補ってる」そう言って彼女は皿に目を落とした。「体臭って食べ物によって変わるけれど、口臭なんてもっと変わるわ。ハーブや果物を食べて、健康的な生活をして、気を使わなくちゃいけない」

「どうして?」僕は何も考えずにそう口にしていた。
「どうしてですって?」徒花は少し目を見開いて僕の質問を逆にきき返してきた。おまえがそれを訊くのか、とでも言いたそうだった。

「あなたのような――いいえ、あなたに」

 言葉を区切って徒花は水を一口ふくんだ。白い喉元がこくりと動く。彼女が塗れた口元を紙ナプキンで押さえるようにぬぐったかと思うと、不意に僕の顔へ煙を吹きかけてくる。

「味わってもらうためにきまっているじゃない」

 食事中の喫煙はマナー違反じゃないかとおもうが、食事をしているのは彼女のほうで、僕はコーヒーを飲んでいるだけだからいいのかもしれない。なにより僕がその煙を味わう側で、文句が付けにくい。
 さっきから事あるごとに彼女はこうやって息を吹きかけてくる。僕はそのたびについそれを味わってしまう。その煙はタバコではない。吐息だ。それを認識して、まるで変態みたいだなと自己嫌悪に陥るのだ。

 余韻に浸ってぼんやりとしたまま、食事を再開した徒花を見る。姿勢を正して行儀よくサラダを口に運んで行く。僕は煙の味が薄れたころを見計らい、コーヒーに口をつける。美味い。
 コーヒーを味わっているあいだ、目の前のケーキを忘れていたわけではない。食べようかなと思ってケーキに視線を落とすたび、徒花もつられて目を動かすのがわかった。どう考えても、食べたいのだろう。

「ねえ、よければ一口もらえない? 見ていたら食べたくなってきちゃった」

 僕が良かったら食べないかと聞こうとするより少し早く、徒花がそう言った。いつの間にかサラダは綺麗に食べつくされていた。


「よければ、全部」そう言って皿ごと差し出してみれば徒花はうれしそうにフォークを手にする。

「ケーキは食べてもかまわないの?」
「別腹っていう、便利な言葉が日本にはあるじゃない」と彼女は笑った。
「それにね、男の人って、女からは甘い匂いがしたほうがいいのでしょう?」

 周りのフィルムを器用にフォークではがしながら徒花は続ける。

「だからときどき食べるの。バニラや、ショコラ、それに果実、バターなんかの匂いをさせるために」

 そう言って口にケーキを運んだ徒花の頬が、みるみる緩んでいくのがわかった。最初は大人びて見えたが、今の彼女の様子は年相応に思えて微笑ましい。

「なに笑っているの」
「甘いものはおいしいもんな」
「……そうよ、ケーキは美味しいもの。あたしもケーキみたいに、美味しくなりたい」

 ただそれだけ。そう言って笑う彼女の耳は少し赤くなっていた。


 一日目はそうやって何事もなく終わった。結局、煙の事については詳しく聞けなかった。話をそちらに進めようとするたびに、徒花にうまくかわされるのだ。
 宣言通り夜は一緒に過ごさないらしく、彼女は七時ごろに部屋を出て行った。明日からは一緒に夕食をとることになったけど、今日は一人だ。ルームサービスを頼み、その後はやることもなく、シャワーを浴びると眠ることにしてベッドに潜り込む。

 随分と変なところに来てしまった。本当にこんなところで禁煙できるのだろうか。
 もやもやとした考え事を巡らせながら、眠りに落ちる直前に気がついた。
 欠かしたことが無い、寝る前の一服を忘れていた事に。